アウグストゥス(Augustus)
アウグストゥス(ラテン語:Imperator Caesar Divi Filius Augustus、紀元前62年9月23日 - 紀元14年8月19日)はローマ帝国の初代皇帝の名。軍司令官としての才能には恵まれなかったが、政治手腕は養父カエサルと同等かそれ以上であり、既に機能不全の元老院の動静を注視しながら、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を着実に築き上げた。
アウグストゥスはラテン語の呼称であり、英語ではインペラトル・シーザー・オーガスタスとなる。
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騎士身分に属するガイウス・オクタウィウスとアティア(カエサルの姪)との間に生まれる。出生の時の名は『ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(Gaius Octavius Thurinus)』と称する。姉には小オクタウィアがいた。幼少の頃はウェレトラエ(現ヴェッレトリ)の祖父のもとで過ごす。
紀元前58年、4歳のときに執政官の選挙に出ようとする父と死別。その後母アティアはルキウス・マルキウス・ピリップスと結婚、この時オクタウィウスは両親の元へ引き取られ、継父は実の息子とともにオクタウィウスの事を可愛がったと言う。紀元前47年には神祇官に任命される。
紀元前46年には大叔父カエサルの建造したウェヌス神殿を記念してギリシアの古代オリンピックに参加させられる。本来は大叔父のアフリカ遠征に付き従いたかったのだが、母親アティアの反対により断念となった。
紀元前46年、16歳のときには大叔父カエサルのヒスパニア遠征に従軍、ポンペイウス勢力と戦う予定であったが、すでに敵は殲滅させられ、彼自身も出立直前に病に倒れる結果となってしまった。そして病が直るとすぐに戦場に船で急行、しかし途中船が難破しカエサルと敵対する勢力の真ん中に漂流してしまう。ここでオクタウィウスは生き残った少数の兵を掌握し敵陣を横断、この彼の行動はカエサルに強い印象を与え、一説にはこの時にカエサルは自分の後継者としてオクタウィウスを選ぶ事にしたと言う。またオクタウィウスは計画されていたパルティア遠征には司令官として赴くことになっていた。
紀元前44年3月15日にカエサルがブルートゥス、カッシウスらに暗殺される。この時オクタウィウスはイリュリアにて遠征の準備中であったが、急遽ローマへ帰還する。その途中ブリンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自分を後継者に託していた事を知る。そして以後『ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)』を名乗ったらしい。
いずれにせよ、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったオクタウィアヌスは、カエサルの養子に指名されたことで一躍有名になった。
ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちより暖かい歓迎を受けた彼はカエサルの側近たちの協力も得、カエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するためカエサルが集めた公的資金を要求。700,000セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められた。そして元老院の査察のもとその資金で軍団を編成、東方に派遣したとされているが、実情はアントニウスを中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。そして、また彼は権限なしで東方属州からローマにわたるはずの税収を収用した。
パルティアはカエサルが戦うはずであった宿敵であり、この戦争をちらつかせる事でオクタウィアヌスはカエサルの後継者としての支持を集める。そしてローマへの帰還中オクタウィアヌスのもとに様々な支持、とくにカンパニア在住のカエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受ける。6月までに3,000のカエサルの退役兵が彼の元に集合、オクタウィアヌスは一人につき500デナリウスの給付金を配った。
こうしてカエサルの古参兵、側近とともにオクタウィアヌスは勢力を伸ばし、今や有力なカエサルの後継者候補として、政治の表舞台に躍り出た。
紀元前44年5月6日にオクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、ブルートゥスとカッシウスはギリシアに、デキムス・ブルートゥスはガリア・キサルピナの属州を支配下に抑えていた。
そして軍団兵の支持厚い名将、民衆派の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を成功させた他、カエサルの財産の4分の3を相続したオクタウィアヌスは、それを元手にカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。
次第に頭角を現す彼に対して、カエサルの死後、事実上執政官として権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせる。当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたが、これをオクタウィアヌスが取りやめるように説得する。しかしアントニウスはこれを拒否し、説得には失敗するものも、多数のカエサル贔屓の者からオクタウィアヌスへの同情を買う事となった。
9月にアントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを演説で攻撃、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。次第にアントニウスは元老院で孤立していく。また一年である執政官の任期も切れかかっており、アントニウスは窮地に陥る。
この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。彼は執政官の任期が切れる前に自分の身柄を保護する場所として属州のガリア・キサルピナ(現北イタリアの一部、当時は共和政ローマ内と考えられていなかった)に注目する。この属州は、当時デキムス・ブルートゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。この間オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集し自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日アントニウス配下の軍団2つも指揮下に入れる。12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは翌日紀元前43年1月1日ガリア・キザルピナへと逃れた。
ガリア・キザルピナの委譲を拒否するデキムス・ブルートゥスはムティナでアントニウスの包囲を受けていた。元老院は争う両者に歯止めをかけようとするが失敗、自らの軍を持たない元老院に代わってこの状況をオクタウィアヌスが活用しようとする。
この時点でオクタウィアヌスが自ら配下の軍団を持っている事は周知の事実であり、血統的にローマ元老院の新参者であるオクタウィアヌスの弱点を突くアントニウス派の攻撃を、政治的に反カエサル派であってもカエサルの友人でもあったキケロが弁舌で擁護していた。そして紀元前43年1月1日元老院はオクタウィアヌスを元老院議員に、そして彼にインペリウムを与え、この年の執政官であるヒルティウスとパンサとともにアントニウスが行っている包囲攻撃を中止させようと試みるが、両執政官ともどもアントニウスに殺される。
また元老院は台頭するオクタウィアヌスよりデキムス・ブルートゥスに近づき、この両名執政官が率いた軍団の指揮権をゆだねる事を決議、これに怒ったオクタウィアヌスは前線から撤退、ポー川流域に留まりこれ以上のアントニウスの攻撃要請を拒否する。
6月にオクタウィアヌス配下の百人隊長がローマに赴き、ヒルティウスとパンサが有していたこの年の執政官特権を委託するよう要請、またマルクス・アントニウスを「国家の敵」として談合する事を破棄するよう要請した。元老院はこれを拒否、するとオクタウィアヌスは8つの軍団を率いてローマに進軍する。さしたる抵抗なく8月19日にローマに入った彼は親戚であるクィントゥス・ペディウスとともに改めて執政官に選ばれる。一方でアントニウスは同僚でカエサル支持派でもあったレピドゥスと連合して元老院と対峙した。ここで、内心はカエサルの後継者として元首政(帝政)を目指すオクタウィアヌスは、彼らとの妥協を模索した。
紀元前43年の10月、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第2回三頭政治が成立した。
この同盟関係は密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第1回三頭政治と異なり、公然としたもので、彼らは国家再建三人委員会に就任し、カエサル暗殺者逮捕を名目に元老院派の排除に乗り出した。この時、作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2000人が殺害、財産が没収されたと言われる。また、粛清リストにキケロの名が入り、苦境の中盟友であった彼を助けたいために当初オクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたがアントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、この大量粛清は非情に断行されキケロも殺害された。
そして元老院派はギリシアで兵を集めていたブルートゥスとカッシウスを残すのみとなった。
紀元前42年1月1日、元老院はカエサルの神格化を決定、『神君ユリウス(Divus Iulius)』となる。これによりオクタウィアヌスは自らを「神君の息子」とし、元老院での影響を強める。一方アントニウスはオクタウィアヌスの影響を恐れカエサルの神格化を反対、この事が知らずにローマ市民、カエサル配下の退役兵の支持を失う事になった。
今や同盟関係となったオクタウィアヌスとアントニウスは28もの軍団を率いてマケドニアに進撃、親友で右腕のアグリッパと共に転戦し、ブルートゥス、カッシウスらをギリシアのピリッピの戦いで破り、ブルートゥス、カッシウスは自害した。
この戦いでオクタウィアヌスは自ら軍を指揮せずに配下のアグリッパに指揮を託していた。このオクタウィアヌスの態度をアントニウスは臆病者となじり、この戦いの真の勝利は自分の功績だと主張したという。
戦後、再び三頭政治内で三者の支配地域の取り決めが行われ、アントニウスはガリア・キザルピナを去りエジプトへ、ここでカエサルの愛人であった女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンと出会う。レピドゥスはアフリカへと赴任する。そしてイタリア本国に留まる事になったオクタウィアヌスだったが、迅速に解決すべき問題に迫られる。
すなわち軍団兵たちの戦後処理の処遇で、ピリッピの戦いで味方として戦った兵士だけでなく敵方の兵隊も軍役の義務の対価として土地の要求をしていた。もし譲歩せねばこれらイタリア在住の兵士は敵方に寝返りかねない。しかし内紛では兵士に配るだけの新たな土地もあるわけがなく、既存のローマ市民の自治体に強引な割り込みをしなくてはならない。兵士を取るか、ローマ市民を取るか-苦渋の選択でオクタウィアヌスは兵士の側に立ち、強引に地方共同体に退役兵の入植を行った。しかしながら彼の戦後処理は十分とは言えず、兵士の中には不満が募った。これを元老院とつるんだルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)の攻撃の隙ととらえてしまう。
一方で家庭面ではオクタウィアヌスは妻クロディア・プルケラと離縁した。クロディアはアントニウスの義理の娘になり、母フルウィラはマルクス・アントニウスと結婚していた。夫をクレオパトラから取り戻したい母フルウィラは行動を起こす。ここでオクタウィアヌスと敵対する両者は手を結ぶ。
ルキウス・アントニウスと手を組んだフルウィラはイタリア本国在住の兵士と結託、8軍団を編成しオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。しかし彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。ルキウス側はすぐに資金が困難となり、すぐにペルシアでオクタウィアヌスに包囲される。
結果ルキウス・アントニウスは紀元前40年初頭に降伏、フルウィラは東方へと亡命した。この敵対行動をオクタウィアヌスは許す事ができず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑、そして同年オクタウィアヌスはスクリボニアと再婚した。
このオクタウィアヌスが行った処刑は汚点となり、後の詩人セクストゥス・プロペティウスに批判されている。
ルキウスの反乱に呼応して紀元前40年にエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたくカエサル配下であった百人隊長たちは相食む戦争の参加を拒否、また先の武装蜂起を起こした一角であったフルウィラは同年死去、妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆した事もあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ。
この盟約でそれぞれの支配地域が再確認される。アントニウスはローマ属州の東方、レピドゥスはアフリカ属州、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西に、先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスではあったが、別の視点からすればイタリア半島は共和政の制度では兵の募集が簡単で、東方にいるアントニウスには不利であった。さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。
三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も地方では元老院派が残っており、その最たるものはポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスで、カエサル派で揃った三頭政治とは敵対関係のはずであったが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとしていた。 当初オクタウィアヌスはセクストクスと和議、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島、ペロポンネソス半島の領有権を認め、そしてセクストゥスが紀元前35年の執政官になる事を確約していた。
しかしセクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。自らを『ネプトゥニ・フィリウス(Neptuni Fillius、ネプチューンの息子)』と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは座視できず、関係は悪化。オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。
アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは彼自身の野心、すなわちカエサルが行ないきれなかったパルティア遠征を実現させるために貸しを作りたかったからであった。カルラエの戦いでクラッススが破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとってパルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るにはうってつけの事業であった。
そして紀元前37年オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定、アントニウスはオクタウィアヌスに120の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに20,000人の軍団兵を相互に送る事を約束した。アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った、しかし、紀元前36年、オクタウィアヌスは、パルティア戦争の際、姉のオクタウィアがアテネへ行くときに、約束の10分の1すなわち2,000人を送っただけであった。
紀元前36年9月3日、アグリッパ率いるオクタウィアヌス軍にセクストゥス・ポンペイウスがナウロクス沖の海戦が敗北する。そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸、セクストゥスは逃亡を図るが紀元前35年アントニウスの手の者に捕まり処刑された。
シチリア島を占拠したオクタウィアヌスとレピドゥスはポンペイウス派の残存勢力を掃蕩、レピドゥスはオクタウィアヌスを一掃しシチリア島を独占するつもりでいたが、しかしここでレピドゥスの部下がオクタウィアヌスに買収され寝返る。孤立したレピドゥスはオクタウィアヌスに降伏、最高神祇官の役職だけの保持は許されたが、ここで三頭政治の一頭が失脚した。
そしてオクタウィアヌスはローマ人の権利を確約、今度は退役兵をイタリア半島外へと入植させ、ポンペイウスの軍に参加した持ち主が帰参した後もそのままポンペイウスのもとに留まっていた奴隷を元の持ち主に返還させた。
こうして共和政ローマは東のアントニウス、西のオクタウィアヌスと二分され、18歳だった青年はローマの半分を支配する人物となった。
一方アントニウスは念願のパルティアへ遠征する。しかし結果は惨敗、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。また前述のようにオクタウィアヌスの支援は2,000人に過ぎなかった。
クレオパトラは彼の軍隊を再建できるほどの財を持っており、これを好機として、またクレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。しかし、この一件はオクタウィアヌスに好都合の反撃の隙を与えてしまう。
オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾、アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説、アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。
しかしアントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするような事を繰り返す。すなわち紀元前34年にアントニウス配下のローマ軍がアルメニアを占拠した際にアントニウスはクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据え置く、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けたりした。そしてオクタウィアヌスはこれを政治的に利用、アントニウスを悪人としてローマ社会から孤立させる事に成功する。そしてアントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動した。
紀元前33年1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告への決議案を提出する。しかし一部の元老院議員は彼が行ってきたアントニウス非難の政治的なプロパガンダとしか見ておらずアントニウスの告発の根拠を求める。これに対応してオクタウィアヌスはウェスタの巫女からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。
アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべき事、アントニウスの墓はエジプトのアレクサンドリアに立てられるべきで、クレオパトラとともに葬られるべき事が書かれていた。
これを耳にして元老院もアントニウスを見限り、紀元前32年後期にクレオパトラのプトレマイオス朝に宣戦布告した。
オクタウィアヌスはアグリッパの指揮のもと、アドリア海の制海権を確立し、クレオパトラの兵站補給を寸断した。オクタウィアヌス軍はコルフ島の対岸に上陸し、そこから南方へ進軍する。補給が寸断され、孤立したアントニウスの軍では、オクタウィアヌスのもとに帰参する者も出た。こうしてオクタウィアヌスとアントニウスとの対決の布石は整い、アクティウム沖で両軍が激突することになった。
紀元前31年9月2日、オクタウィアヌスとアグリッパ率いる海軍は、アントニウスとクレオパトラの連合軍をアクティウムの海戦で破った。二人はエジプトのアレクサンドリアへ逃れるが、オクタウィアヌスに追撃され、二人は自殺するにいたった。ここにプトレマイオス朝は滅亡した。この際、オクタウィアヌスは多数の財宝を得、内戦終結に伴う兵士の退職金に充てたと思われる。こうして、1世紀に及ぶ内戦の時代は終結した。
紀元前29年、ローマに凱旋したオクタウィアヌスは元老院の「プリンケプス」となった。プリンケプスとは、元老院内での第一人者を表す名称である。帝政では皇帝が全てのローマ市民の中で第1の立場を占める元首を指すことになった。そこで、帝政は元首政とも呼ばれる。
こうして、オクタウィアヌスは、カエサルを暗殺した共和主義者を滅ぼし、アントニウスらとの権力闘争を勝ち抜いて、彼の権力を妨げる勢力を全て排除することに成功した。時間はかかったものの、オクタウィアヌスはローマ世界を統一し、カエサルの後継者に相応しいことを実力で証明した。軍事的な実績があり、親戚筋でもあったアントニウスや、実子とされるカエサリオンではなくて、18歳の無名の若者であった彼を後継者に指名したカエサルの選択眼は優れていたと言えよう。
紀元前27年1月13日、突如オクタウィアヌスは元老院で、全特権を返上し共和制復帰を宣言する演説を行った。元老院は驚喜したが、実際には、この時放棄した特権とは三頭政治権などの内戦時の非常時大権であって、すでに有名無実化しているものばかりであった。また、属州を比較的安全なものと軍団駐屯の必要のあるものとに分け、前者を元老院が支配し総督を選べる属州(元老院属州)、後者を軍団総司令官であるオクタウィアヌスが総督兼軍団指揮官の任命権を持つ地域(皇帝属州)とした。
1月16日、元老院は満場一致でオクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を奉じ、国の全権を掌握するよう懇請した。オクウィアヌスは数度に渡って辞退した上で承諾した。慎重なオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。ここに共和制は完全に終焉し、古代ローマは帝政に移行した。アウグストゥスことオクタウィアヌスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は元首政と呼ばれる。
帝政の開始時点に関しては諸説ある。アウグストゥス称号を送られた日より前、1月13日にアウグストゥスが戦時の非常大権を元老院に返還した時点を開始とする説などがある。これは、建前としては(あるいは法的には)アウグストゥスは大権を元老院に返上した一個人に過ぎなかったからである。アウグストゥスはカエサル暗殺を教訓として、建前上は徹底して権力者である事を避け続けた。例えば彼はカエサルが就任し、その後廃止されていた終身独裁官の官職を復活させるような直接的な事はせずその代わりに護民官特権(肉体不可侵権や拒否権等を保持)を得たり、腹心のマルクス・ウィプサニウス・アグリッパと共に執政官に何度も就任したりして(厳密に言うとこれすら違法だが)自分が創作しようとしている帝政の「イレギュラーさ」をカモフラージュしている。また、元老院と同じ立法権を持った第一人者補佐機関(実質上の内閣)を作りそのなかに元老院議員を多く加えたり、途中からは執政官職の独占をやめたりと元老院を重視する(少なくともそのように見せかけた)政策も多く立案し実行に移した。しかし表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは唯一のローマの統治者であり続けた。そして彼の後継者達も「アウグストゥス」の称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。アウグストゥスは、インペラトルやカエサルなどと共に皇帝を示す称号の一つになっていった。
紀元前27年、プロコンスル命令権を授与された。同年から紀元前24年にかけてには西方再編成に着手。 紀元前23年にローマに帰還。同年護民官特権を与えられ、身体の不可侵性と法案に対する拒否権を彼のみが有する状態となった。紀元前22年からは東方再編成に着手。紀元前19年に帰還し執政官(コンスル)命令権を得た。紀元前18年、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みた。
紀元2年、元老院より「国家の父」(pater patriae)の称号が与えられた。
アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると、後継者問題に取り組んだ。当初、姉オクタウィアの息子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。しかし、紀元前23年に彼が死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。紀元4年、ガイウス・カエサルが没したため、同年6月27日に、ユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、妻リウィアの前夫との子で、血のつながりはないが名門クラウディウス家の家名を継ぐティベリウスを養子とした。後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。しかし、アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、死亡の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。
紀元14年8月19日、体調不良が原因で崩御した。最後の言葉は「私は人生という喜劇を演じきった。私を喝采で送ってくれ」であった。遺灰はアウグストゥス廟に葬られ、神格化された。
何よりも「ローマの平和」(Pax Romana)を実現したことが最大の功績である。
カエサルが構想し挫折した数々の計画を実行していった。
彼の死後の最終的な称号は次の通りである。
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