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カイザー=フレーザー

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年9月24日 (月) 01:31。)
1949年式カイザー・バージニアン
1949年式カイザー・バージニアン
1953年式カイザー・ダリン(Kaiser Darrin)スポーツカーの3D画像。ボディデザインはダッチ・ダリンとビル・トリット。
1953年式カイザー・ダリン(Kaiser Darrin)スポーツカーの3D画像。ボディデザインはダッチ・ダリンとビル・トリット。
1953年式カイザー・ダリンの3D画像。ドアがフロントフェンダー内にスライドインすることに注目。
1953年式カイザー・ダリンの3D画像。ドアがフロントフェンダー内にスライドインすることに注目。
1954年式カイザー・ダリン:シボレー・コルベットを競合車に想定して製作された
1954年式カイザー・ダリン:シボレー・コルベットを競合車に想定して製作された
1954年式カイザー・ダリン
1954年式カイザー・ダリン

カイザー=フレーザー・コーポレーション(Kaiser-Frazer Corporation)は、社名を変えながら、1945年から1970年まで自動車を製造した米国の自動車会社。米国ミシガン州ウィロウランに1953年まで、その後はオハイオ州トレドに本社を置いた。

目次

概要

第二次世界大戦の終了直前に、グラハム=ペイジ・コーポレーションの社長として自動車会社を経営していたジョゼフ・W・フレーザー(Joseph W. Frazer)とカイザー・カンパニー/カイザー・インダストリーズの産業人(インダストリアリスト)ヘンリー・J・カイザー(Henry J. Kaiser)によりカイザー・インダストリーズ(Kaiser Industries)傘下の子会社カイザー=フレーザー・コーポレーションとして1945年に設立される。同社はグラハム=ペイジ社の以前の資産も組み入れていた。

第二次世界大戦中に造船業界で成功を収めていた有力産業人のカイザーが、自動車製造のノウハウを持ち、業界での再起を目指したフレーザーと組み、終戦に伴い遊休化した軍用航空機工場の民需転換によって自動車業界への本格進出を目指したものである。既にいわゆる「ビッグ3」に牛耳られるようになっていたアメリカ合衆国の自動車業界において、独立した国内資本による大規模な量産自動車メーカーを新たに発足させた、ほぼ最後の例と言えるが、結果的には挫折することになった。

創業者の名前をもつカイザー(Kaiser)およびフレーザー(Frazer)という2種の車の生産から始まった。また、カイザー=フレーザーではヘンリー・カイザーの名前に由来する小型車ヘンリーJも製造した。ヘンリーJはシアーズ・ローバックオールステートブランド名でカタログ販売された。しかし1950年代中期に至るまでの乗用車生産はほとんど不振に終わった。

1952年に「カイザー・モーターズ」に社名変更。1953年、ウィリス=オーバーランドを買収しウィリス・モーターズ・インコーポレーテッドと名称を変更し傘下企業とする。1955年、乗用車事業から撤退。1963年、会社名をカイザー=ジープ・コーポレーション(Kaiser-Jeep)に変更。1970年、カイザー・インダストリーズはカイザー=ジープをアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)に売却し自動車メーカーから完全撤退する。

カイザー=フレーザー・コーポレーション

1945年7月25日に設立され、1946年、ニューヨーク市のウォルドルフ アストリア ホテルでカイザー(Kaiser)とフレーザー(Frazer)という創立者の名前をつけたプロトタイプ2車種を公開した。プロトタイプのカイザーは先進的な前輪駆動(FF)の設計を取り入れたと発表され、一方フレーザーは高級仕様の従来型後輪駆動となっていた。ボディデザインはハワード・ダーリン(Howard Darrin)による先進的なフルワイズであった。

しかし、製造に要するコストおよび時間の問題から、前輪駆動方式は生産モデルには採用されず(新しい物好きのヘンリー・カイザーは別として、フレーザーら多くの人々は戦前、前輪駆動車の「コード」が駆動系でトラブルを多発した歴史を知っており、前輪駆動を支持しなかった)、1947年式として発表されたカイザー車およびフレーザー車はボディとエンジンが共通のバッジ・エンジニアリング車となっていた。

それでも、前後フェンダーをボンネット及びトランクと完全一体化し、車体側面を平滑に連続させた幅広の新型デザインを持つカイザーとフレーザーが市場に投入された時点で、ビッグ3はいまだに古い戦前モデルを継続生産しており、2種の兄弟車は市場から注目される存在となった。1950年までボディとエンジンは共有されつづけ、外装と内装が異なるのみであった。

もっとも、ビッグ3およびその他の戦前からの主要メーカーは、戦後型のニューモデル開発を進めており、1948年から1949年にかけてカイザー、フレーザーと同様のフルワイズ・フラッシュサイドボディの戦後型モデルが一気に市場に出回ると、カイザー=フレーザーの優位性は失われた。

もとより、フラッシュサイドボディとしては初期のデザインであるダーリン・デザインのカイザー=フレーザー車は、1946年ならともかく、1950年ともなると競合各社のより技巧を凝らした後発デザインに比べ、平板さは否めなくなっていた。しかもエンジンは生産体制の制約から自社製ではなく、エンジンメーカーのコンチネンタル製エンジンを購入して搭載していた(これは1950年代までカイザー=フレーザー系の乗用車全てに共通しており、自社でエンジンを開発できないことは性能向上の足かせになって、競争力を削いだ。カイザーの積んだ旧式なコンチネンタル6気筒エンジンでは、競合各社の中級車が搭載するV型8気筒エンジンに太刀打ちできなかったのである)。

ジョゼフ・フレイザーは第二次世界大戦前のグラハム=ペイジ・コーポレーションでの経験によって、現実を直視した経営方針を採ろうとしたが、もとが造船業者であって自動車産業への知見の乏しいヘンリー・カイザーは、向こう見ずに困難に立ち向かおうとした。1949年に至ってカイザー=フレーザー製品の販売が落ち込んだにも関わらず、カイザーはより多くの生産を指示し、その結果、1950年半ばには在庫過剰に陥ってしまった。

カイザー・モーターズ

1951年型カイザーはようやく低くスマートな新型にモデルチェンジしたが、1951年、ヘンリー・カイザーとの激論の末にジョゼフ・フレイザーは社を離れ、会社は1952年に「カイザー・モーターズ(Kaiser Motors)」と社名変更した。フレーザーの名前をつけた車は1万台足らずの生産で終了した。

1953年、カイザーはウィリス車やジープのメーカー、ウィリス=オーバーランドを63,381,175米ドルで買収し、傘下に組み入れた。1954年にウィリス・モーターズ・インコーポレーテッドと(ウィリス=オーバーランドの)社名を変更しカイザーとウィリスの生産を統合した。この決断により1955年にはウィリス系小型乗用車も含めて、不採算だった乗用車事業から撤退する。

こうして主力商品は、大きな需要の見込めるジープへと移行した。1956年には、ウィリス・モーターズはジープ系のユーティリティ・ビークルのみを生産。多くは輸出され、かなりの利益をもたらした。

カイザー=ジープ・コーポレーション

1963年に会社名をカイザー=ジープ・コーポレーション(Kaiser-Jeep)に変更。1969年には、カイザー・インダストリーズは自動車産業から撤退することを決断。1970年、カイザー=ジープ・コーポレーションはアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)に売却されAMCはジープ生産を継続した。売却時点で、カイザーはAMCの株22%を取得したが、のちに手放している。カイザー=ジープの資産には1964年のスチュードベーカーの自動車産業撤退時にカイザーが購入したゼネラル・プロダクション部門(軍需部門)も含まれていた。AMCがルノー傘下となったのちの1982年に、国防上の理由から軍需部門はAMゼネラル社として分離独立した。AMゼネラル社は2007年現在も操業を続けており、ハマーの製造メーカーとして一般的に知名度を維持している。

1987年、AMCはクライスラーに3.6億米ドルで売却された。クライスラーはジープ系列を求めていた。クライスラーは自社での一からの開発をおこなって同様の評価を得るには10億米ドル以上のコストがかかると見積もっていた。

生産拠点

カイザー=フレーザーモデルの生産はミシガン州ウィロウランを拠点としていた。ウィロウランはヘンリー・フォードにB24リベレーター爆撃機を生産委託するために米国政府第二次世界大戦直前に建造した当時世界最大の建物であった。戦争が終了しフォードは施設の継続使用をしなかったため戦時資産管理事務局(War Assets Administration)が、施設のリースまたは買い上げ先を求めており、有利な5年リースを設定しており、カイザー=フレーザーはこれに応じた。当時のカイザー=フレーザーはそれ以外にも、ミシガン州ジェファーソン、カリフォルニア州ロングビーチ、オレゴン州ポートランド、カナダ・オンタリオ州リーサイド、イスラエル・ハイファ、日本・川崎、メキシコシティ、オランダ・ロッテルダム(Nekaf(Nederlandse Kaiser-Frazer))に生産施設を所有していた。1953年のウィリス=オーバーランドの買収により、米国での生産はオハイオ州トレドに集中させ、ウィロウランの施設はゼネラルモーターズがミシガン州リボニアの油圧機器工場の火災に遭い早急な復興プランを求めていたためこれに売却した。

車種

  • カイザー(Kaiser):カスタム(Custom)、デラックス(Deluxe)、バージニアン(Virginian)、カロライナ(Carolina)、トラベラー(Traveler)、ドラゴン(Dragon)、マンハッタン(Manhattan)などのセダン系。バガボンド(Vagabond)4ドアハッチバック・ユーティリティ・セダン。
  • フレーザー(Frazer):スタンダード(Standard)、デラックス(Deluxe)、マンハッタン(Manhattan)などのセダン系。バガボンド・ハッチバック。4ドアコンバーチブルモデルもあり、1951年のフレーザー・マンハッタンは1961年のリンカーン・コンチネンタルまで米国での4ドアコンバーチブルとして10年間最新モデルでありつづけた。
  • ヘンリーJ:小型エコノミーカー。コルセア(Corsair)、バガボンド(Vagabond)などのモデルがある。
  • ウィリス(Willys):「エアロ=ウィリス(Aero-Willys)」の他、「エアロ=ラーク(Aero-Lark)」、「エアロ・エース(Aero Ace)」などのサブ・モデルがある。

米国外での生産

カイザーとウィリスの生産は1955年モデル途中で中止されたが、オハイオ州トレドでのウィリスジープ生産は継続された。カイザーはアルゼンチンでの自動車生産をインダストリアス・カイザー・アージェンティーナ(Industrias Kaiser Argentina(IKA)で、また、ブラジルでの生産をウィリス・ド・ブラジル(Willys do Brasil)で継続。1960年代に米国で使用した金型などを使用した。

アルゼンチンにおけるカイザー社

詳細はIKAを参照

1951年、アルゼンチンは米国にBrigadier GeneralであるSan Martínを向かわせ、アルゼンチンでの自動車生産を打診した。1954年、カイザーは唯一これを受諾した。他社はいずれも投資に対して市場が小さすぎるとして請け負わなかった。1955年1月19日、カイザーとアルゼンチン政府はアルゼンチンでのカイザーの乗用車およびトラック生産に関して合意した。2月にはKaiser Automotoresという名称の持ち株会社をカイザー・インダストリーズの100%子会社として設立。傘下に実際に製造販売をおこなうIndustrias Kaiser Argentina S.A.(IKA)を置き、その一部の株をKaiser Automotoresが、その他をアルゼンチン政府の自動車会社IAMEやその他の投資家が保有した。8月、カイザーは完成車1021台、生産設備、スペアパーツ類の米国からの輸入が認められた。1955年3月に新工場が操業開始し、1956年4月27日にはアルゼンチン製ジープがラインオフした。

アルゼンチン工場はコルドバ県サンタ・イザベル(Santa Isabel)市に建造されカイザー・マンハッタンがカイザー・カラベラ(Kaiser Caravela)と名前を変えて製造された。カラベラとはスペイン帆船の型であるキャラベル船のことである。米国での合成皮革とファブリックでのインテリアはより頑丈な革張りに変更されている。スピードメーターはkm表示に変更され、水温計、油温計、燃料計の表示もスペイン語とされ、サスペンションは整地されていないアルゼンチンの道路に合わせて強化されていた。一方ダッシュボード上のベンチレーター、ヒーター、ヘッドライト、ワイパースイッチは英語のままだった。サービス業務の提供の難しさからオートマチックトランスミッションは装備されていない。

生産は1958年7月25日から開始され、その年中に2,158台を生産した。IKAではコルドバ工場でジープも生産され、1958年だけで20,454台が組み立てされている。カラベラとジープの生産総数は22,612となり、1958年にアルゼンチンで生産された自動車の81%を占めていた。競合は国が経営する自動車会社が生産するユーティリティ(いわゆるジープタイプ)仕様の車のみであった。多くの人がIKAの自動車工場がSanta Isabelという港や輸送拠点から遠く離れた場所で車を生産するのだろうと疑問に思ったが、これの主たる理由はサン・マルティン将軍(General San Martín)の故郷だったということだった。彼は時の大統領フアン・ペロン(Juan Perón)に親しく、また影響力を持っていたのである。

1962年に、"Gran coche argentino"(偉大なアルゼンチン車)と呼ばれたカラベラは15,000台をもって生産終了となった。カラベラは医者、銀行家などのアルゼンチンの名士たちに上品な輸送手段として愛用された。カラベラには1960年から1962年にかけて競合車種が現れている。まず、アルファ・ロメオ1900セダンがあり、これは2500ccの6気筒(オリジナルは4気筒)エンジンを搭載し、ベルガンティン(Bergantin)と名づけられた。この名もスペイン帆船の型のひとつである。またアルゼンチン製のルノー・ドーフィン(Renault Dauphine)もあり、これはIKAドーフィンという名前だった。1962年にはAMCからランブラーがライセンス生産され、それまでのすべてを置き換えることになった。最後のAMCモデルは国際レースで活躍していたトリノだった。

1968年カイザーはIKAをルノーに事実上売却、社名はIKAルノー(現ルノー・アルヘンティーナ)となった。

外部リンク

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