ガイウス・ユリウス・カエサル(ラテン語:Gaius Julius Caesar、紀元前100年7月13日 - 紀元前44年3月15日、生年は太陰暦であるローマ暦、死亡の月日はユリウス暦)は、古代ローマ(共和政ローマ)最大の軍人、政治家。また文筆家としても有名。
ガイウス・ユリウス・カエサルはラテン語での呼称であり、イタリア語ではガイオ・ジュリオ・チェーザレ(Gaio Giulio Cesare)、英語ではジュリアス・シーザー(Julius Caesar)と呼ばれ、シェイクスピアによる同名の戯曲がある。「カエサル」の名は、帝政後期には副帝の称号となり、後の時代には皇帝を指す名詞となった。
ドイツのローマ法学者であるテオドール・モムゼンは「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評した。
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紀元前100年(一部では102年)ごろに生まれたと推定されている。ユリウス氏族はアエネアスの息子アスカニウスから来ており、またウェヌス神の子孫と考えられていた。
カエサルという家族名は数種類の紀元が挙げられている。
しかしながらローマ皇帝群像においては:
などが挙げられている。しかしながらカエサル個人は自らの横顔を刻ませたコインの裏に象を描かせている事から「象」説を信じていたものと考えられている。このような古く系譜を辿れる名門貴族(パトリキ)であるユリウス氏族カエサル家ではあったが、過去に執政官を3人しか出してはいなかった。
父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル。彼は法務官まで行き、義理の兄ガイウス・マリウスの影響もあり、アシア属州の総督を勤めた。母はアウレリア・コッタ、祖先に幾人もの執政官を出した名家の出身であった。また幼少の頃からつけられた家庭教師としてグニポがおり、彼はガリア系の人物であった。
幼少期のカエサルはローマが戦乱に明け暮れる日々の中で育つ。まず子供の頃には同盟市戦争が起こり、思春期を通じてポントゥス王国のミトリタデスがローマを脅かしていた。またローマ内でも政治的に不安定な時期でもあり、当時ローマでは元老院を中心とする寡頭政治を支持する門閥派(オプティマテス)、民衆を基盤とする市民会の選挙政治を中心とする民衆派、この2つの政治理念が政治を動かしていた。民衆派の中心人物はガイウス・マリウス、一方で門閥派の中心人物はマリウスのかつての部下であったルキウス・コルネリウス・スッラ、カエサルの叔母ユリアはガイウス・マリウスに嫁いでいたため、幼少の頃より民衆派(ポプラレス)と目されていた。
ミトリダテスの討伐に権限を巡ってこの両者が対立、結局スッラがポントゥスへ赴く事になった。しかしスッラの遠征中にマリウスにもまたミトリダテス討伐の任が与えられ、これに激怒したスッラは軍を率いてローマヘ、老年のマリウスはローマから逃げのびる。そして元老院に念を押して再び遠征に出かけると今度は流浪の恥辱を晴らさんとするマリウスが再びローマを制圧、ルキウス・コルネリウス・キンナと手を結びスッラを「国家の敵」と弾劾、そしてマリウス派がスッラの支持者を粛清する。その直後の紀元前86年にマリウスは没した。そして翌年カエサルの父が死去、齢16にしてカエサルはカエサル家の家長となってしまった。
紀元前84年、カエサルはユピテル神の高位の神官職を務める。しかし、この職務はパトリキのみに開放されており、また前提としてパトリキと結婚する者が条件であったので、カエサルは婚約していた騎士階級の娘と別れる事となった。そしてコルネリウス氏族であるキンナの娘であるコルネリア(Cornelia)と結婚する。
しかし、その直後スッラがローマへ進軍、キンナを殺し、終身独裁官に就任、そして政治的に対立する民衆派を片っ端から粛清する。血縁としてマリウスに近く、またキンナの女婿であるカエサルも当然この処刑リストに名が載り、彼はあやうく殺されそうになった。このとき彼はまだ18歳、政治活動は何もしていなかった若年であった事からスッラの支持者、果てはローマで大変敬意を表されているウェスタ神の巫女からまで助命嘆願が相次ぎ、スッラもこれにしぶしぶ同意する。そのときスッラは「君たちにはわからないのかね。あの若者の中には100人のマリウスがいるということを」とカエサルが非凡であることを見抜いた発言をしたと伝えられる。しかしその代わりスッラはカエサルにキンナの娘コルネリアとの離婚を命じたが、彼は拒否、スッラの追手から逃げ紀元前81年ローマから逃走した。
そしてローマから亡命したカエサルは属州での軍務に就く。アシア属州のマルクス・ミヌキウス・テルムスのもとでシキリア在住の軍に籍を置き、ここでの業績で彼は市民冠を授与される。そしてビテュニア遠征の際に支援したニコメディア王のもとに非常に長期間滞在する。スエトニウスによれば、この時に王と若いカエサルは男色関係にあったのではないかという噂が立ち、この噂は彼の終生に渡ってつきまとったと言う。
この頃ローマでは、制度疲労に陥っていた元老院の綻びを直し終わったスッラが紀元前80年に終身独裁官を辞していた。
そして紀元前78年スッラ死去、これを聞いてカエサルはローマへ帰還した。
ローマに戻ったカエサルは下層階級の住むスブラの一角に質素な家を持った。また民衆派で有名な彼が戻った事で民衆派のマルクス・アエミリウス・レピドゥスよりクーデターの誘いを受けるが、レピドゥスの指導力に疑問を持った彼はこれを断る。その代わりに彼はその弁舌で一躍知られた存在となる。当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や贈賄を行う者が頻繁にいたが、感情のこもった手振りと息つく暇もない話しぶりで彼はそのような属州総督を次々と告発したと言う。また、この時の彼を弁舌でその名が知られたキケロも賞賛したと言う。そして紀元前75年修辞学を学ぶためにロドス島へ赴き、キケロの師匠でもあったアッポロニウス・モロンに師事した。
そしてローマに戻るとトリブヌス・ミリトゥムに当選、ローマ男子が誉れとするクルスス・ホノルムの道を歩み始めた。
紀元前73年 – 71年、スパルタクスの反乱がイタリア半島を駆け巡り、ローマ社会もこの大規模な奴隷反乱の対応に追われる。しかし、この時期カエサルは何をしていたか記録はない。そして紀元前69年に財務官(quaestor)に、この頃叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行っている。この時また、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げ、自らを民衆派である事を公然と示し、弾圧された民衆派の人々に強い印象を与えたと言う。また妻のコルネリアもこの年死去した。
財務官の任務でカエサルはヒスパニアへ赴任する。ここでアレクサンドロス大王の像を目にして大王の年齢に達したのにも関わらず何もなしえていない自らの心境を吐露したと言う。そして任務を早めに切り上げてもらいローマに戻った。
ローマに戻ったカエサルはスッラの孫であるポンペイア(Pompeia)と結婚した。ポンペイアは裕福だったため、彼はその財産を買収や陰謀に使い、政治的なキャリアを積み重ねていった。
紀元前65年には高級按察官(aedilis curulis)に就任、スッラ亡き後も元老院派が政治を牛耳っていたのにも関わらず、彼は公然と叔父である民衆派の巨頭マリウスの戦勝碑を修復に着手、またスッラの粛清リストに載った人々の没収財産で財を成した者の告発を行っている。と同時に多額の公費を使い公共事業や公共祭儀などに派手に使用、同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルスの存在を完全に日陰にしてしまうほどであった。また彼はこの時期未遂に終わった二度のクーデターの関与も疑われていた。
紀元前63年、紀元前62年はカエサルにとって忙しい年であった。まず護民官ティトゥス・ラビエヌスを説得して元老院議員ラビリウスを37年前の民衆派政治家サトゥルニヌス殺害の容疑で告発、ラビエヌスを告発側に就かせる。この時、弁護側にはマルクス・トゥッリウス・キケロとクィントゥス・ホルテンシウスが務める。そしてラビリウスは国家反逆罪で断罪された。この時護民官メテッルス・ケレルがヤヌスの丘に戦時召集の旗が掲げてあるのを見て民会を緊急召集、裁判事態はうやむやになった。しかし、これを機にカエサルはラビエヌスという盟友を見つけ、後にラビエヌスはカエサルのガリア遠征で活躍する。
また同年、カエサルはスッラの治世中に任命された前職のメテッルス・ピウスの死去に伴い、最高神祇官(Pontifex Maximus)の立候補に出る。そして彼は同じく立候補に出た前職の執政官カトゥルスとイサウリクスとその座を争う事になり、互いに職を巡っての贈賄の告発が続く事態となる。この時、既に選挙運動で多額の借金を抱え(その最大の債権者がクラッススであった)、もし落選すれば再び国外退去するつもりでいたカエサルは母アウレリアに「最高神祇官にならなければ戻ってくる事はないでしょう」と言ったと言われる。しかしながら彼は二人の経験のある対立候補を抑えて当選する。そしてカエサルは晴れて公邸に住む身となった。
そして、さらにまた、この年カティリナの陰謀が発覚、この年の執政官であったキケロが熱弁を奮ってカティリナ一味を断罪、またカエサルはこの年法務官(praetor)に当選していた。元老院議員たちの間で互いに疑心暗鬼となり陰謀の対処に追われる中、カエサルは陰謀に加担した者の死刑に反対、あくまでも終身の投獄を主張する立場を取る。これに対してカトーは処刑を徹底主張、陰謀者たちは処刑された。翌年も陰謀の追求のため委員会を設置、その中でキケロは陰謀が何たるか報告を事前に受けていたという証言があったが、彼は容疑の潔白を証明し逆に彼を告発した人物、そして委員会のメンバーの一人も獄につながれる事態となった。その間カエサルは一環として処罰の連座制に反対の立場を貫く。
しかしながらスエトニウスによるとカエサルは実はクラッススとともに裏で陰謀を策謀していたとも言われている。
このような陰惨な事件ではあったが、この最中に一幕の喜劇もあった。ある日会議中にカエサルは手紙を渡された。それを政敵である小カトーが陰謀に加担した証拠だと中身を見せろと詰め寄った。そして言われるままに中身を見せるとそれは愛人セルウィリア(小カトーの異父姉)からの恋文だったと言う。
この頃までのカエサルには多くの愛人がいたが(カエサルには「ハゲの女たらし」という異名がある。やや誇張がちと思われる一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られた事になっている)、「ポンペイアが女装した情夫を引き入れた」というスキャンダルに対しては、自らは女装して侵入した犯人のクロディウスの弁護を行ないながらも、「疑われること自体、カエサルの妻として不名誉である」として紀元前62年に妻と離婚した。カエサルが関係した女性は以下の通りである:
紀元前60年、執政官をめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級(経済界)を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに第一回三頭政治が結成された。
民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。執政官在任中には、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることまでした。これも三頭政治が有効に機能した結果といえよう。
紀元前58年、カエサルはガリア・キサルピナおよびガリア・トランサルピナを任地とする属州総督に就任した。カエサルは、ヘルウェティー族のローマ属州ガリア通過要求を拒否した。これを契機に、ヘルウェティー族との間で戦争状態になった。これが彼のガリア戦争の発端である。その後カエサルはガリア人の依頼を受けてゲルマニア人のアリオウィストゥスと戦って勝ち、翌年にはガリアの北東部に住むベルガエ人諸部族を制圧した。
また、ガリアを脅かしていたゲルマニアにも侵攻してゲルマニア人のガリア進出を退け、ライン川防衛線の端緒を築いた。紀元前55年には、海をこえてブリタンニアにも進出した。最大の戦いは紀元前52年、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスとのものであり、このときはほとんどのガリアの部族が敵対したが、カエサルはアレシアの戦いでこれを下している。
これらの遠征により、カエサルはガリア全土をローマ属州とした。カエサルはガリア遠征について、自らの著書『ガリア戦記』にまとめている。同書は雄渾で簡潔な文体で知られ、ラテン散文の傑作とされる。
カエサルはこの戦争でガリア人から多数の勝利を得、ローマでの名声を大いに高めた。彼は「新兵は新軍団を構成し、既設の軍団には新兵を補充しない」という方針を採ったため、長期間に渡る遠征を共にした軍団は兵数を通常の定足数より減らしたが、代わりに統率の取れた精強な部隊になり、ローマにではなくカエサル個人に対し忠誠心を抱く兵士も多かったと言われる(事実、ルビコン以後ではローマの為というより、自分達の最高司令官の名誉のために戦う、と明言した者も多い)。これらのガリア征服を通して蓄えられた実力はカエサルが内戦を引き起こす際の後ろ盾となったのみならず、ローマの共和派のカエサルに対する警戒心をより強くさせ、共和派の側からも内乱を誘発させかねない強攻策を取らせることとなった。
カエサルがガリアに遠征していた紀元前53年、パルティア王国攻略に出ていた三頭政治の一角であるクラッススの軍が壊滅し、クラッススは戦死した。これにより、三頭政治は崩壊し、元老院派に取り込まれたポンペイウスとカエサルとの対立が顕在化した。
紀元前49年、カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる元老院最終勧告(事実上の非常事態宣言)が発布された。カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越え、国家を内乱へと導いた。この内乱は、カエサルの内乱(Caesar's civil war)とも呼ばれる。ローマの法では、ルビコン川以南への軍の侵入は禁じられていた。1月10日にルビコン川を渡る際、彼は有名な言葉「Alea jacta est. (賽は投げられた)」を残した。
ルビコン川を越えたカエサルの行動は迅速だった。即日、リミニに入城し、アドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。対するポンペイウスはローマにいたため即時の軍団編成を行えず、ローマおよびイタリア半島を放棄して、勢力地盤であったギリシアで軍備を整えることにした。多くの元老院議員が彼に従ってギリシアへ去った。こうして、カエサルはローマの実質的な支配権を手にした。
ヒスパニアにいるポンペイウス派の将軍を倒して後方の安全を確保したカエサルは、紀元前49年、2回目の執政官に当選した後、軍を率いてギリシアへ上陸した。数で劣るカエサル軍は、ポンペイウス軍を包囲しようとしたドゥラキウムの戦いでは撤退を余儀なくされたが、紀元前48年8月9日のファルサルスの戦いでは優れた戦術によって圧勝した。ポンペイウスはエジプトに逃亡したが、プトレマイオス朝の都アレクサンドリアに上陸しようとした際、、プトレマイオス13世の側近の計略によって、迎えの船の上で殺害された。後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。
ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先王プトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟が争っていた。カエサルはクレオパトラと同盟を結び、女王の側に立って政争に介入した。アレクサンドリア戦役と呼ばれるこの戦いで、クレオパトラ派とカエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。クレオパトラは弟を暗殺して権力を握り、エジプトはローマの同盟国となった。
カエサルがクレオパトラ7世に与した理由は諸説あるが、少なくとも、クレオパトラの美貌に惑わされたからではない。
まず、プトレマイオス13世とその周辺が反ローマ的であったことが挙げられる。
また、弟王派に逃亡してきたポンペイウスを謀殺した犯人がいたという事実も大きい。カエサルは元老院派の人物の官職を剥奪しなかったため、ポンペイウスは殺害された時も元老院議員であり、ローマの公人だった。ローマの指導者として、カエサルは、前執政官という重要人物に対する不当な仕打ちを見過ごすわけにはいかなかった。加えて、内乱中、カエサルは、自分と敵対した者でも降伏すれば許すという方針を貫いていた。これは「(カエサルの)寛容(Clementia)」として知られる。もし、ポンペイウスを暗殺した者を処罰しなければ、「カエサルは宿敵の暗殺は許した」という評判が立って、この姿勢が揺らぐことを懸念したと考えられる。
エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで休暇を楽しみつつ、地中海東岸地方の情勢を調べた。そこへ、小アジアに派遣していたカルウィヌスが、ポントス王国のファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。紀元前47年6月、カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシリアやキリキアとの同盟関係を確認しながら進軍、同年8月2日、ゼラの戦いでファルナケスを破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告が、有名な「Veni, Vidi, Vici. (来た、見た、勝った)」である。そのあとローマに短期間滞在した。その際、1年間の独裁官に任命された。そのあと、アフリカ(現在のチュニジア)へ遠征、カトーなど共和派を撃破した。そこで、10年間の独裁官に任命された。
紀元前46年夏、ローマ帰還したカエサルは、市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。クレオパトラはカエサルと再会したのは、おそらくこのあとのことだろう。彼女はカエサルとの間にできた息子とされるカエサリオンを伴っていた。
紀元前46年、北アフリカにて抵抗を続けていた共和派の残党を討ち果し(タプトスの会戦)、その支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えることで元老院への権力集中を防ぎ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化をした。さらに、自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として、後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎となった。
だが、カエサルへの権力集中に対し危機感を抱いたブルートゥス、カッシウスらにより、紀元前44年3月15日、元老院に出席しようと現れたカエサルは、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で暗殺された。数日後、遺言が開かれ、18歳の養子のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)が後継者に指名された。
暗殺された際に発したとされる「Et tu, Brute! 」(ブルートゥス、お前もか!)という言葉は有名だが、これは後世イギリスのシェークスピアによって作られた戯曲『ジュリアス・シーザー』の中の台詞である。また、スエトニウスでは「我が子よ※1、お前もか」とされているが、どちらも実際には口にしていないとも言われる。また、この言葉は通常、暗殺の指導者の1人であるマルクス・ユニウス・ブルートゥスを指すとされている。これに対して、カエサルが呼んだのは、子どもの頃から知っているとは言え愛人の子に過ぎなかった彼ではなく、その従兄弟に当たるデキムス・ユニウス・ブルートゥスではないかという指摘がされている。
デキムス・ブルートゥスは、ガリア遠征の始めからカエサル麾下で活躍した有力な将軍で、カエサルはその才能を愛し、若いながらも重用していた。それにも関わらず、暗殺に荷担し、実行にも加わった。カエサルの死を知った民衆の怒りは、腹心中の腹心であったデキムスに集中したと言われる。カエサルの遺言状では、相続順位第1位のオクタウィアヌスが辞退した場合の第2位の相続人(政治上の後継者)にまで指名されていた。デキムスは、遺言の内容を知って蒼白になったという。
※1 ブルートゥスはかつての愛人セルウィリアの息子であった。