PocketPetとは?

ジェームス・ハント

について
関連サイト ジェームス ジェームス

ウィキペディア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月13日 (火) 19:57。)
ジェームス・ハント
F1での経歴
国籍 イギリス
イングランドの旗 イングランド
活動年数 1973 - 1979
所属チーム マーチ, ヘスケス,
マクラーレン, ウルフ
出走回数 92
タイトル 1 (1976)
優勝回数 10
通算獲得ポイント 179
表彰台(3位以内)回数 23
ポールポジション 14
ファステストラップ 24
F1デビュー戦 1973年モナコGP
初勝利 1975年オランダGP
最終勝利 1977年日本GP
最終戦 1979年モナコGP
[編集]

ジェームス・ハントJames Simon Wallis Hunt1947年8月29日 - 1993年6月15日)は、イギリス出身の元レーサー。1976年F1のシリーズチャンピオンを獲得した。

プロフィール

F3時代、頻繁に自分のマシンをクラッシュさせたことから、姓のハントの韻を踏んだハント・ザ・シャント(Shunt、壊し屋の意)という仇名を拝命するほど乱暴な走り方をするレーサーだった。だが幸運なことに、友人関係にあったレース好きの貴族アレクサンダー・フェルマー・ヘスケス卿が新興チームを立ち上げ、交友関係からハントがドライバーとして起用され、大舞台へのチャンスを掴むことになる。

F1にステップアップしてからは、それまでの仇名が嘘のような走りを見せ、1975年に初優勝(ヘスケスチーム唯一の勝利)を達成。チームが資金難で撤退した後、名門マクラーレンに誘われエースに抜擢された。1976年は優勝を2度も失格処分で取り消される目に遭いながら(1回は後に再認定)、フェラーリニキ・ラウダドイツGPの炎上事故で欠場する間にポイント差を詰め、最終戦F1世界選手権・イン・ジャパンで逆転し、ドライバーズチャンピオンに輝いた。このレースは雨の悪コンディションでラウダが自らリタイアし、ハントは上位を走行していたが、ウェットタイヤが消耗し残り数周でピットイン。順位を落としてタイトルを失ったと思い、ゴール後チーム関係者に怒鳴りかかったが、そこでようやく自分がチャンピオンだと知らされることになった(ハント以外の上位車も順位が錯綜していた)。

カーナンバー1を付けた1977年も3勝を挙げたが、復活したラウダにタイトルを奪還された。この年の日本グランプリでは優勝したが、レース後の表彰式をすっぽかして帰ってしまった。1978年はマクラーレンがウイングカー開発に遅れたため低迷。翌年ウルフに移籍したがマシンに失望し、シーズン途中にあっさり現役引退を表明した。

人物

色を好む古典的なプレイボーイ・レーサーで、私生活の放埓な話題には事欠かない。正装が求められるFIA年間チャンピオン表彰式へジーンズにサンダル履き姿で現れるなど、やや奇人めいた自由奔放なスタイルを取りつづけた。プロフェッショナルなニキ・ラウダとは対照的なキャラクターだったが、サーキットでは意外と馬が合う仲であった。ラウダのクラッシュ炎上事故の発生を露骨に喜ぶそぶりで関係者らのひんしゅくを買ったが、チャンピオン争いでは互いに実力を認め合う好敵手同士だった。

1976年、ゲストとして参加したカナダのフォーミュラ・アトランティックで地元選手に打ち負かされ、マクラーレンの監督ティディ・メイヤーに獲得を進言する。その地元選手、後にフェラーリのドライバーとなるジル・ヴィルヌーヴであった。

引退後はBBCのF1中継解説者となり、歯に衣着せぬ発言を連発する辛口振りで知られることとなった。特にリカルド・パトレーゼに対しては、1978年ロニー・ピーターソン死亡事故の原因であったと疑われていた時期があったせいか、自らの死に至るまでむしろ罵倒と呼ぶべき内容の酷評を続けていた。しかし現在では事故の主因はハント自身のドライビングにある事が判明している。そんな彼が賛辞したのはジョニー・ハーバートであり、「同じマシンに乗せたら彼の方が早い」とまで言っている。

1993年ウィンブルドンの自室で心臓発作が原因で死去。45歳没 。死の僅か数時間前まで、いつものように友人にジョークを飛ばしていたという。

関連項目

先代:
ニキ・ラウダ
F1ドライバーズチャンピオン
1976年
次代:
ニキ・ラウダ
ウィキペディアでの『ジェームス・ハント』の改訂履歴
Text is available under GNU Free Documentation License

今日の旬ワード

3. 遊助
4. AKB48
9. Cocco
10. ℃-ute