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ジャッキー・イクス

について

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月5日 (月) 12:30。)
ジャッキー・イクス
F1での経歴
国籍 ベルギー
活動年数 1967 - 1979
所属チーム クーパー, フェラーリ,
ブラバム, マクラーレン,
アイソ, ロータス,
ウィリアムズ, エンサイン,
リジェ
出走回数 114
タイトル 0
優勝回数 8
通算獲得ポイント 181
表彰台(3位以内)回数 25
ポールポジション 13
ファステストラップ 14
F1デビュー戦 1967年イタリアGP
初勝利 1968年フランスGP
最終勝利 1972年ドイツGP
最終戦 1979年アメリカ東GP
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ジャッキー・イクスJacques Bernard "Jacky" Ickx1945年1月1日 - )は、ベルギー生まれの、かつてF1で活躍した元レーシングドライバーである。また、ル・マン24時間レースでの活躍も有名である。

目次

プロフィール

F1

1967年にニュルブルクリンクで行われたドイツGPにおいて、ティレルF2チームから参戦。予選において、並み居るF1ドライバーを凌ぎ、ジム・クラークデニス・ハルムに次ぐ総合3位に相当する予選タイムをマーク。

レースでも、グリッドはF1の後ろとなるにもかかわらず、4周目終了時には12台を抜いて5位を走行。その後、レースはリタイアに終わったが、この走りはF1チームのマネジャー達に対する強いアピールとなり、イタリアGPではクーパーのワークスシートを獲得。その初戦において、早くも6位入賞を果たした。

翌1968年にはフェラーリへ移籍。フランスGPで初優勝、ドイツGPではポールポジションを獲得する活躍を見せる。ブラバムへ移籍した1969年とフェラーリへ戻った1970年には、それぞれ2勝・3勝をマークして、ドライバーズランキング2位となった。

1971年、1972年もそれぞれ1勝(オランダGP、ドイツGP)するなど活躍した。翌1973年もフェラーリのエースとして開幕を迎えたが、次第にチームとの関係は悪化していった。更にニューマシン312B3の開発が難航し、フェラーリはイギリスGPの後F1を休止、その間ドイツGPで3台目のマクラーレンM23を駆り、2台のティレルに次ぐ3位表彰台を獲得。再びフェラーリに戻ったが、オーストリアGP用の新型B3はセカンドドライバーのイタリア人、アルトゥーロ・メルツァリオのみに委ねられた。結局シーズン終了を待たずしてフェラーリを離脱。最終戦アメリカGPでは、フランク・ウィリアムズ率いるアイソで出走し、7位に入り意地を見せた(メルツァリオはリタイア)。

1974年、エマーソン・フィッティパルディの抜けたロータスに加入。手始めに、ブランズハッチで行われたノンタイトル戦「レース・オブ・チャンピオンズ」で優勝を挙げる。この年ロータスはニューマシン76をデビューさせたが、後に車の出来が期待はずれであることが判明、結局僚友、ロニー・ピーターソンがモナコGPで優勝した後、開発が中止となり、その後は76のパーツを流用した72Eで戦うこととなる。チーム内では、1年の経験があるピーターソンの方に分があったが、彼が後退した2レースで表彰台を獲得し、ドイツGPでは、得意のニュルブルクリンクを舞台に、ピーターソンの0.8秒差(このレースのタイム計測は1/10秒単位であった)でフィニッシュするなど、時折光る走りを見せた。とはいえ、チーム自体は次第に勢いを失っていたのも事実である。翌1975年もピーターソンと共にロータスを駆ったが、時代遅れの72Eにもはや勝つための能力はなく、人身事故のため29周で中断したスペインGPでの2位が唯一の入賞となった。結局、イギリスGP前にロータスを去ることとなる。

1976年には、1973年最終戦以来となるウィリアムズチームに移籍。しかしアメリカ西GP、ベルギーGP、モナコGP、イギリスGPで予選落ちを喫するという散々な成績の末チームを去ることになる。この年は、スウェーデンGPを欠場する代わりにポルシェ936を駆りルマン24時間レースを制しており、この頃から、スポーツカーレースを活動の中心におくようになったようである。その後、ドイツGPで起こったニキ・ラウダの事故にて、安全管理に不満を示しF1を引退したクリス・エイモンに代わり母国オーストリアGPを走ったハンス・ビンダーを引き継ぐ形でエンサインに移籍しF1復帰。イタリアGP、カナダGPで完走するも、世界のトップドライバーに見合うパッケージとは程遠かった。1977年はエンサインのセカンドカーでモナコGPのみスポット参戦(10位)、1978年も同チームでモナコGP、ベルギーGP、スペインGP、スウェーデンGPに参戦したが、好成績を得られぬままデレック・デイリーにシートを託す。

1979年は、もはやモナコGPにも母国ベルギーGPにも出走しなかったが、フランスGP前に、リジェパトリック・ドゥパイエハンググライダーの事故で負傷して空いたシートに収まる。この年リジェチームは3勝を挙げており、再び勝利を伺える千載一遇のチャンスだったが、不運にもシーズン中ごろから低迷し、そして、自身のドライブスタイルがウィングカーに合わないことが明らかになって行き、5位、6位それぞれ1回ずつの入賞にとどまった(その後幾多の勝利を挙げたポルシェ956もウィングカーであったため、彼にとってリジェのマシンの挙動は実に特殊だったことが伺える)。最終戦アメリカGPはグリッド最後尾24番手でかろうじて決勝に進出。そして、決勝レーススタート2周目、アクシデントでリタイア、更にその次の周では、チームメイト、ジャック・ラフィットまでもアクシデントでリタイア。モータースポーツ史に残る偉大な男のF1グランプリでの最期は、実に呆気ないものであった。この年を最期にF1を去り、リジェのシートは、若きディディエ・ピローニに引き継がれるのであった。

F1以外

F1引退後のイクスは、F1参戦中より活躍を見せていたスポーツカーを中心に活動をすることとなり、特にル・マンにおいては、1969年・1975年 - 1977年1981年1982年と6勝をマークした(この頃日本ダンロップのタイヤ「ル・マン24」のテレビコマーシャルにも出演している)。これは2005年トム・クリステンセンに破られるまで、長く最多勝記録であった。

また、当時としては少数派だが、彼は安全に対してもきちんとしたポリシーを持つ人物であり、ル・マン24時間レースにおける、ル・マン式スタートは危険として常に抗議していた。そのアピールとして、1969年の同レースのスタート時に、大幅に順位を落とすことを承知で、あえてマシンに駆け寄らず一人マシンまで歩いて近寄り、シートベルトをキチンと締めてからゆっくりとスタートした。なおこのレースは、激戦の末に、イクスのフォードGT40がポルシェ908ロングテールをギリギリでかわして優勝するという劇的なレースであった。これが決定的となり、ル・マン式スタートは廃止された。 また、レースマスコミが、カーレースの潜在的な危険性を勘違いし、ある種の見世物のように、無用な蛮勇を褒めあげる事もとても嫌っており、記者から「レースに勝つコツは」としつこいインタビューをされた際には、「できるだけ"遅い"タイムで1位で完走すること。」とコメントして物議をかもしたりした。

また、1991年にはマツダのスーパーバイザーをつとめ、マツダの優勝に貢献した。ル・マン優勝後、マツダはイクスに対してボーナスの提供を申し出たが、イクスは「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い。」と固辞したエピソードがある。

1979年にはCAN-AMでチャンピオンを獲得、1983年にはパリ・ダカール・ラリーにも参戦し、優勝を飾った。

ドライバー業以外

モナコGPの協議役員も務め、チェッカーフラッグを振る役目を果たしていたが、1984年の豪雨のレースでは、レース中盤に赤旗による打ち切りの判断を下したことが、「猛然と迫ってくるアイルトン・セナステファン・ベロフが、首位走行のアラン・プロストを交わすことを阻止する為だったのではないのか」、と物議を醸したこともあった。

しかし、レースは視界がまったく見えないほどの豪雨であり、協議側も順位を把握できない危険な状態となっていたため、この論争はあくまで噂に過ぎない。

ベロフは翌年の世界スポーツカー選手権第7戦スパ1000kmに於いて、イクスを強引に抜こうとしてオー・ルージュでクラッシュし、帰らぬ人となった。

ベルギー人は独仏という大国にはさまれて影が薄くなることが多いことから、同郷の若手ドライバーとF1などトップカテゴリーの間のパイプ役を勤めている。ティエリー・ブーツェンベルトラン・ガショー等がその恩恵に浴した。

1970年

1970年は、キャリアの中でも最もチャンピオンに近付いた年となったが、ランキングトップだったヨッヘン・リントの事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。

しかしながら、これは八百長発言と言う訳では無く、リントが死亡したイタリアGPの前戦オーストリアGP終了時点で、45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、イクスはトップのリントはおろかジャック・ブラバム(25p)・ハルム(20p)にも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎなかった。状況としてはトラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアGPを除く最終3戦を3連勝して、ようやくリントを1ポイント上回れるという大差を付けられており、イクスの意思にかかわらず、タイトルを獲れる可能性は元々非常に小さなものであった。

実際には、イクスはこの最終3戦を最終戦メキシコGPの優勝を含む優勝2回・4位1回で終え、この3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せている。後に、リント夫人が最終戦を優勝したイクスに「カナダGPを優勝した時には、このまま全部勝ってしまうのではないかと思った」と言ったという。この頑張りは「手を抜いた走りをするのはリントに失礼」と言う思いがあったからである。

それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはブラバムやハルム、更にオーストリアGP終了時点で同点だったジャッキー・スチュワートがシーズン終盤になって失速した事に助けられた部分も大であった。

補足

長女のヴァニーナ・イクスもレーシングドライバーであり、スパ・フランコルシャン24時間レースル・マン耐久シリーズ(LMES)に参戦した他、2006年からはドイツツーリングカー選手権(DTM)にフル参戦している。

2006年に行われたラ・フェスタ・ミッレミリアにアルファロメオでエントリーしていたが、当日は姿を見せなかった。近藤真彦も、同じく事前エントリーのみで当日参加を見合わせたが、こちらは、スーパーGT・オートポリス戦とスケジュールが重なったためである。

脚注


関連項目

外部リンク

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