フォード・モーター・カンパニー(Ford Motor Company,NYSE:F)は世界の自動車王ことヘンリー・フォード一世が1903年6月16日に創業した、米国ミシガン州ディアボーン(デトロイトの近郊都市)に本社を置く自動車メーカー。2006年の時点で、フォードは全米第2位、世界第3位の自動車会社である。アメリカにおける市場シェアでは17.5%を占め、GMの24.6%に次ぎ、トヨタの15.4%、ダイムラー・クライスラーの14.4%をしのぐ。フォーチュン誌が選ぶ世界500大企業(粗収益ベース)の2007年版では、全世界での収益が1601億ドルとされているフォードはアメリカ企業の7位にランクされた。2006年時点でフォードは年間660万台の自動車を生産し、世界100か所の施設・工場で28万人を雇用する。また世界恐慌を乗り越えることができたアメリカでも数少ない自動車会社であり、100年にわたり一族支配を継続している世界最大級の家族経営会社でもある。
フォードは自動車の大量生産工程、および工業における大規模マネジメント(科学的管理法)を取り入れたことで産業史・経営史に特筆される。特に1913年、組み立て工程にベルトコンベアを導入し流れ作業を実現したことは有名である。大量の自動車を早く生産できる高効率の工場設備、士気を高める高給料の工員、一台当たりの生産コストの革新的な低減を組み合わせたフォード生産方式は「フォーディズム」の名で世界的に知られるようになった。
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現在、日本のマツダ、英国ランドローバーなど世界各国の自動車会社を傘下に収め、スウェーデンボルボ社の乗用車部門を買い取りフォードの1ブランドとして販売している。フォード社直轄の工場でも米国の他、英国やドイツ、オーストラリアにもおかれている。
ヘンリー・フォードは2度自動車会社に失敗したが、3度目のこの会社は1903年6月16日の創業から現在までつづいている。当時40歳の彼は12人の投資家(特に重要なのはダッジ・ブラザーズ自動車の創立者、ジョン=フランシス=ダッジとホラティウス=エルジン=ダッジのダッジ兄弟だった)から現金2万8千ドルを集めて再起を期した。
3度目のこの会社ではA型と名付けた車から製造販売をおこない1908年のS型に至ったが、1908年から製造販売された『T型フォード』は大量生産時代の自動車製造スタイルおよびそれに付随する全米規模でのアフターサービス体制を形作った最初の車となり、現代の自動車産業の原点としての意味で名車といわれている (現代の販売スタイルの原点は自動車産業全体を資金面と戦略面で支えた石油産業とその頂点にあったGMが先んじていた)。
フォード開業当時のモデルはデトロイト市内のマック・アベニューにある貸工場で生産され、部品を自動車へ組み上げる作業を1台当たり2・3人の工員が数日かけて行っていたが、フォードではそれまでばらつきのあった部品をマイクロゲージを基準とした規格化によって均質化し、部品互換性を確保することに成功していた。T型フォードは初めての自社工場であるピケットロード工場を利用し、フル生産開始の1909年には1年間で1万8千台もの台数を生産した。廉価なT型への需要が急増すると、フォードはさらに大型のハイランドパーク工場を建設し、1911年の稼働時には年7万台の生産を可能とした。フォード社は流れ作業システムや大量生産に必要な技術・管理方式を開発し、1913年には世界初のベルトコンベア式組み立てラインを導入した。部品の簡素化・内製化、流れ作業による工員の間での分業化により、たとえば車体1台の組み立て時間は12時間半からわずか2時間40分に短縮され、年生産台数は25万台を超え、1920年までに100万台を突破した。
しかし生産技術革新は、工員にとっては、同じ動作だけの単調な労働を長時間強いられる極めて過酷なもので、人員の異動も多く、未熟練工員の雇用や訓練コスト高に結びついた。ただでさえアメリカの労働力が不足する中フォードは労働力確保を迫られ、1914年には1日当たりの給料を2倍の5ドル(2006年の価値では103ドル)へと引き上げ、シフトを1日9時間から1日8時間・週5日労働へと短縮する宣言を発し、結果応募者が退職者を上回り続けることになった。合衆国政府が最低賃金や週40時間労働の基準を決める以前にこれを達成したことになる。一方でフォードは労働組合の結成には反対し続けた。
労働力不足と賃金上昇で1台当たりのコストが上昇したため、フォードは販売価格に転嫁せず生産コストを矢継ぎ早に削減した。またフォードのブランドに忠実なフランチャイズ販売店システムを導入した。またヘンリー・フォードは、従業員が自社の車を買えるように賃金を引き上げたが、こうした厚遇は当時のウォール街の批判を浴びている。しかし1919年末にはフォードはアメリカの自動車生産の半分を担い、1920年には全米の自動車の半分がT型フォードとなった。T型以前のモデルでは黒以外の多様なバラエティがあったが、T型はペンキの乾きが早く済むという理由で黒1色しかなかった。
1915年にはヘンリー・フォードは第一次世界大戦の休戦を模索するために平和使節としてヨーロッパへ渡っている。これは彼への人気を高めたが、一方でT型フォードは連合国の軍用車となって戦争を支えた。
フォード社はT型フォードだけを製造し続け1927年まで20年近くを一モデルの改良と生産工程の改良、販売サービス網の充実に費やす。当時金持ちのおもちゃといわれた自動車を大量生産によって大幅に値下げした。車は輸送手段となり会社は成功した。この成功によって150社程もあった米国自動車会社の中からフォード社はアメリカ市場の5割を占める大会社となった。しかし、ヘンリーフォード一世のこだわり(のちに失政ともいわれる)によるT型フォードへの固執、会社内部の権力争いなどにより、T型フォード末期には新型シボレー車登場を契機としてマーケティングとオートローンに力をいれていたGM(ゼネラルモーターズ)に首位の座を奪われ、フォード社は心機一転、モデル名を振り出しに戻し再びA型と名乗る車から出直している。
1919年にヘンリーの息子エドセル・フォードが社長を引き継いだが、社の実権は創業者ヘンリーが握り続けた。生産性のさらなる向上でT型の価格は下がり続けたが、社の経営はヘンリーの個人経営同然であり、彼は安価に大量にT型を供給し続けることしか念頭にないふしもあり、より上級の車を求める顧客の需要を無視し続けた。このすきをついてGMとクライスラーがシェアを伸ばし、アメリカ内外の競合企業がT型より新鮮なデザインと優れた性能の自動車で顧客の需要を奪った。もともと多様な自動車会社を併合して生まれたGMは、大衆車から超高級車までのあらゆる価格帯の自動車を販売し、さらに矢継ぎ早のモデルチェンジで常に最新型を供給して以前のモデルを時代遅れのものとし、T型しか買えない層よりも裕福な層をつかんだ。またGMほか競合企業はオートローンによる信用販売により、所得の低い層でも分割払いで高い自動車を買える仕組みを築いた。
社長のエドセルは早くからT型のモデルチェンジを考え、社内や販売店の意向も同様であったが、ヘンリー・フォードはこれを一顧だにしなかった。また、顧客が借金を抱える販売手法は長い目で見て消費者と国家経済を荒廃させるとして強く抵抗した。しかしT型の性能・デザイン面での陳腐化は明らかであり、1927年12月にはついに1500万台を販売したT型の生産を中止し、続くA型を導入した。
一方、1922年2月4日にはリンカーンを買収し、フォードは高級車市場へ参入している。また1938年には大衆車フォードと高級車リンカーンの中間にあたるマーキュリーブランドを立ち上げ、ようやく中級車市場へも参入した。
GMとの競争は早くから海外への進出も目を向けることにもつながり、欧州フォードによる欧州での現地化は古くからおこなわれ、欧州フォード車はフォード車であっても欧州車そのものである。1926年にはオーストラリアのジーロングにフォード・オーストラリアを開設した。アジア進出も早くからおこなわれ日本の横浜に工場を置いた (1925年)。その後GMもこれにつづき、この時期(1925-1940)に自動車販売網、ガソリンスタンドなどの日本の自動車販売の基礎がつくられている(日本の自動車産業の基礎は米国や英国など外国資本の投資だった)。
大恐慌時にはフォード車の高い月給は労働者を多数集めたものの、フォード工場の労働と規則は厳しいものであった。また大恐慌における自動車需要の収縮でフォードの他社との競争は厳しいものとなった。
フランクリン・ルーズベルト大統領はデトロイトを「民主主義の兵器廠」と呼んだ。フォード自動車もこれに深く貢献しており、第一次世界大戦および第二次世界大戦では重要な役割を果たした。ヘンリー・フォードは「戦争は時間の無駄」と言ったと伝えられ、戦争から利益を上げることを嫌悪した。しかしフォードは多くの自動車を軍に納めたほか、1930年代のナチス・ドイツにおけるフォード工場の国有化にかかわり勲章を得た。一方でフォードは第二次世界大戦勃発後の生産増強に際し天才的な才能を発揮し、軍用機・軍用車生産の効率を飛躍的に高めた。B-24爆撃機製造にあたって、飛行機会社では1日1機の製造が精いっぱいだったが、フォードの工場では24時間体制で1時間1機のB-24を生産した。B-24を製造するウィローラン工場は33万平方mの広さの面積で、当時世界最大の流れ作業ラインを持つ工場であり1941年4月に着工した。B-24工場建設のストレスでヘンリーの息子のエドセル・フォードは1943年春に胃がんで死去し、会社は再び父ヘンリーが経営者となった。ウィローラン工場は1943年8月生産開始し、大量の爆撃機を送り出した。またフォードは他社とともにジープ生産にもあたっている。
ヘンリー・フォードは最年長の孫であるヘンリー・フォード二世をフォード自動車の社長に据え、1947年世を去った。ヘンリー二世は1945年から1960年まで社長を務め、1960年から1980年まで会長・CEOを務めた。彼は1956年にフォードを公開会社としたが、現在に至るまでフォード家が投票権の40%を支配し続けている。
1946年、ハーバード大学ビジネススクールを経て陸軍航空隊で戦略爆撃を立案・分析したロバート・マクナマラがフォードに入社し、経営計画および財務分析を担当するマネジャーとなる。彼は創業者と大戦特需を失ったフォードをヘンリー二世の支持を得て立て直し、トップレベルの経営担当重役を歴任し1960年11月9日にはフォード家以外から初めての社長となった。しかし社長就任から5週間もたたないうちにジョン・F・ケネディ大統領に請われホワイトハウス入りし国防長官に就任した。
この間の1950年代、フォードは1955年に名車サンダーバードをヒットさせ、次いで1958年に他社と対抗する意欲的な中級車ブランドを発売した。しかし、亡き社長の名を継いでエドセルと名付けられた新ブランドは、自動車業界の歴史上記録的な大失敗に終わり1960年11月に生産中止となり姿を消す。エドセルの失敗で打撃を受けたフォードは1960年、コンパクトカーのフォード・ファルコンを、1964年にはファルコンをベースにフォード・マスタングを出し、いずれも大成功をおさめた。1967年にはフォード・ヨーロッパが成立した。
マクナマラの有能な部下の一人で、マスタングなど大成功した自動車の開発やリンカーン・ブランドおよびマーキュリー・ブランドの立て直しにあたったリー・アイアコッカは1970年1月に社長となった。彼は後に安全性をめぐり訴訟へ発展したフォード・ピント(1971年)などを発売し1978年にはフォードは史上最高の売上と22億ドルの利益を出したが、経営方針をめぐって会長のヘンリー二世と衝突し、ついに同年7月13日に解雇された。アイアコッカは間もなくライバルのクライスラー社長に就任し同社を再建することになる。
アイアコッカの後は、フィル・コールドウェルが1979年に会長になり、1985年にドン・ピーターセンが継いだ。1990年にはハロルド・ポーリングが、1993年にはアレックス・トロットマンが、1998年にはジャック・ナッソーが会長兼CEOになった。ナッソーの攻撃的な経営は関係企業や社内の不興を買い、2001年には解任され、久しぶりにフォード家のウィリアム・クレイ・フォード・ジュニアが会長兼CEOになっている。2006年にはフォード再建を期待されてアラン・ムラーリーがボーイングよりフォード入りし社長となった。
1970年代以降、フォードはビッグ3のライバルのほか、急速に伸びた日本車との競争でシェアを失った。1990年代にはそれでもなお、株式市場の盛況とガソリン安で多くの車が売れたものの、2000年代に入りガソリン高がフォード車を直撃し、オートローンの収益が大きいにもかかわらず経営難となっている。
原油価格高騰によるガソリンの値上げなどの影響で主力商品のフルサイズSUVやピックアップトラックが燃費の悪さから敬遠される傾向にあり、同様の戦略をとっていたGMと共に経営不振に陥っている。そして2007年3月にはアストンマーチンがデビッド・リチャーズ、クウェートの投資会社などで構成される投資家グループに8億4800万ドルで売却されたことが発表された。これによりアストンマーチンはフォード・グループから離脱。ただしフォードモーターは引き続き7700万ドルの資本は持ち続ける。
日本のトヨタ自動車に世界2位の座を奪われたが、マツダを含めた広義のフォード・グループではトヨタ・グループを未だ上回っている。
戦前には、横浜市内にアジア初のフォードの製造工場が存在していた。1925年からT型フォードのノックダウン生産を開始した。乗用車やトラックを年産1万台生産する国内最大のメーカーでもあったが、1936年7月政府により、日本国の自動車産業の保護育成を目的として「自動車製造事業法」が制定された。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が許可されることになり、100%アメリカ資本だったフォードは1940年に操業停止を余儀なくされる。太平洋戦争(大東亜戦争)中の1941年から1945年の期間、工場設備は日本政府に接収されたが、戦後の進駐連合国軍の管理を経て1958年までにフォードに返還された。現在、この一帯(子安地区)はマツダのR&D(研究開発)センターとなっている。
戦後の日本でのフォードビジネスは「フォード自動車(日本)」「オートラマ」を経て現在は、日本法人「フォード・ジャパン・リミテッド」がフォード車の輸入・販売を行っている。
フォードは第二次世界大戦以前から欧州に生産拠点を作っていた。主なものは英国、ロンドン東方のダゲナム (Dagenham)やドイツ西部、ケルン(Köln)等。 現在の車種の大半はスペイン東部、バレンシア(Valencia/フォーカスやフィエスタ等)とベルギー北東部、ヘンク(Genk/モンデオ等)の工場が担当。
カッコ内はマツダでの車名。
マーキュリー・マリナーハイブリッド(トリビュート・ハイブリッド<マツダは北米限定>)
このほか、創業間もない時期からフォードはトラック、バス、トラクターを生産していたが、米国や欧州で生産していたトラック及びトラクター部門はすでに他社に売却されている。
フォードのオーバル型のトレードマークは1907年に導入された。1928年に生産開始されたT型の後継車「A型」がオーバル型のバッジの中にフォードという書き文字を入れた最初の車種である。「フォード」という文字はフォード社最初の主任技師C・ハロルド・ウィリスの書いたものとされる。彼は1903年に自分の名刺に書いたフォードという文字をもとに、この書き文字を導入した。オーバルの背景の深い青色はパントーン249Cで、フィンランドの国旗と同じ色である。オーバルは幅と高さの比率が8対3の完全な楕円形で、現在のセンティニアル・オーバルは2003年6月17日に創業100年を記念して使用開始された。