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フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランチシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Szopen, 1810年3月1日(2月22日、1809年3月1日説あり) - 1849年10月17日)はポーランドの音楽家。ヨーロッパにおいて作曲家として、またピアニストとして有名であった。
様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、それまでなかったピアノ音楽の新しい地平を切り開いた偉大な作曲家の一人である。
目次 |
生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、時として情熱的な作風の曲も多く見られる。幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を書くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。
その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、またそれまでの作曲家に見られない繊細かつきらびやかな音の使用でピアノの詩人とも呼ばれ、前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
20歳でポーランドから演奏旅行に出掛けた。この時、ショパンの友人がポーランドの土が入った杯を渡したという伝説があるが、これはショパンの伝記を書いた著者の作り話である。後に革命が起こると、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、パリ行きを余儀なくされる。 ウィーン、ドレスデン、パリと転々としたが、後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。また決して政治的に革命思想の主とはいえないが、故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。
若い頃の肖像に見るように美男子であったためか、様々な女性との愛の遍歴も伝説も交えて多々語られることがある。実際彼の場合は、愛情が作曲へと昇華する典型例とも見られる。中でも女流文学家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際、劇的な破局の間には「24の前奏曲集」、「幻想曲」、「バラード第4番」、「英雄ポロネーズ」、「舟歌」、「幻想ポロネーズ」等数多くの傑作が生まれた。また同年代に同じくパリで活躍した大ピアニストであったリストとは違って、大ホールでの演奏をほとんど行わなかったショパンにとっては、貴族の婦人が主催するサロンでの演奏や、貴族の子弟へのピアノ教師が生きてゆくために必要で、なおかつ心落ち着ける居場所であったのであろう。
ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて「練習曲集」(「3つの新練習曲」を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば「前奏曲集」(24曲)は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これは明らかにバッハの「平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ」を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。
大曲よりは小品を好んで作曲した。多楽章作品は数える程しかない。これはピアノという表現手段にもっとも適合的な音楽形態は何であるかを、ショパンなりに熟考した結果とも考えられよう。ピアノ協奏曲に関しては評価が2つに分かれる。
ショパンの作品にはいろいろと逸話のあるものが多く、それらの中にはきちんと確証の持てないものも多い。また彼自身は同時代の有名な作曲家にして評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという(その点をとらえて、ショパンはロマン派ではないとする見解もある)。
きちんとした写真がほとんど残されておらず、死の直前にルイ=オーギュスト・ビソンの手によって撮られた写真が有名である(もう一枚現存する1846年の写真は損傷が激しい)。
ショパンは、数多くのピアノの作品を残したが、その中には未知の作品や、原稿消失作品が複数あることが確認されている。
ショパンの病気は一般的には肺結核とされている。ショパンの解剖報告書、死亡診断書は(おそらく)パリ・コミューンか第二次世界大戦により失われたが、関係者の手紙で一部言及されており、それによれば、肺が侵されていたものの、死因までは特定できなかったと言う。この点や、ショパンの症状などから、ショパンの病気は他の疾患(たとえば遺伝病の一種嚢胞性線維症など)ではないかとする説もある([1])。『音楽と病 病歴に見る大作曲家の姿』(ジョン・オシエー著、法政大学出版局、ISBN 4-588-02178-8)でも、嚢胞性線維症が主張されている。
第二次大戦直後にポーランドの音楽研究家パウリーナ・チェルニツカが、ショパンがポトツカ夫人に書いたという大量の書簡を公表した。これらにはショパンの私生活に対する言及や彼の音楽思想、他の音楽家に対する批評が多く含まれていたため論議を巻き起こした。彼女は原本の公開を拒否したまま謎の自殺を遂げたが、現在では(一部に議論はあるが)少なくとも大部分が彼女による偽作であるとされている。1950-60年代に書かれた伝記などにはこれらの書簡を引用したものが多い。
参考文献:「贋作ショパンの手紙」イェージー・マリア・スモテル著、足達和子訳、音楽之友社、1985年。ISBN 4-276-22433-0
ショパンは、第一次世界大戦で解放されるまで他国によって虐げられたポーランド人の誇りである。大戦後ポーランド人は、ショパンの名を冠した国際ピアノコンクールを、ショパンの生誕日を中心とした期間に開催することにした。現在国際音楽コンクールは数多く開催されているが、このショパンコンクールこそが近代コンクールの先駆けというべきものである。現在も続く国際音楽コンクールの中では最古のものである。
5年に一度の、若手ピアニストにとっての最高の登竜門であるショパンコンクールは、現在では10月17日のショパンの命日を中心とした期間開かれ、地元ワルシャワだけでなく世界中の熱心な音楽ファンにとっては待望のものとなっている。公式日程のほか、市民が気に入ったピアニストを(たとえ予選で落ちた者でも)私的に囲んで演奏会を催したり、期間中遠方からの参加者がピアノを貸してくれる市民宅に逗留したりするなど、単なる優劣付けにとどまらない一大音楽イベントである。1990年の第12回と1995年の第13回と2大会続いて第1位優勝者が輩出されないという状況であったが、2000年の第14回コンクールにおいて中国のユンディ・リが15年ぶりに優勝に輝いた。2005年の第15回コンクールの模様はインターネットで全世界に配信された。この回、初の試みとして、書類選考を通過した参加者全員をワルシャワへ呼び集め、テープやビデオ審査ではなく、生演奏による「予備審査」が導入されたが、2つの会場で同時にコンクール予備審査が行われるという、ショパンコンクールの権威を損ないかねない不可解な審査方法は、大問題となった。
サブタイトルは、ショパンが曲にタイトルを付けることを好まなかったため、ほとんどはショパン自身によるものではない。 彼の作る音楽の特徴として、あらゆる曲にピアノが必ず使われているという点がある。ショパンの作品は現在に至るまで世界中に愛されており、その人気はフランツ・リストが演奏会で盛んにショパンの作品を取り上げていたことと、弟子に必ずショパンの曲を教えていたことから始まっている。 なお、ショパンは自分の作品に大きなこだわりを持っており、遺言で自分の未出版作品の破棄を希望していたが、その希望は受け入れられず、友人でもあったユリアン・フォンタナをはじめとするショパン研究者によって出版された。主な遺作には、幻想即興曲、レント・コン・グラン・エスプッレシオーネ 嬰ハ短調(ノクターン 第20番)などがある。 フォンタナは、ショパンの原稿に手を加え、また作曲年代に関係なく作品番号を付けて出版した。作品66から作品75は、フォンタナによって付けられた作品番号である。またポーランド音楽出版社(パデレフスキ版およびエキエル版)やヘンレ社などの原典版楽譜では、ショパンのオリジナルとフォンタナやその他の編集者による楽譜が掲載されており比較することができる。 なおショパンの作品の分類番号は2つあり、1つはKK(クリスティナ・コビラィンスカによる作品番号のついていない作品)とB(モーリス・ブラウンによる作品分類番号)の2つである。ヤン・エキエルは、彼自身が編纂しているナショナル・エディション(ショパン全集)の中で、作品番号の付いていない作品に限って、WN(Wydanie Narodowe = ナショナル・エディション)というエキエル独自の作品分類番号を記している。
特に有名なものとして、いくつかの楽曲がオーケストレーションを施されまとめられ数種のバレエ音楽が存在する。