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ポンペイウス

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年8月23日 (木) 10:06。)
グナエウス・ポンペイウス
グナエウス・ポンペイウス

グナエウス・ポンペイウス・マグヌスGnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)は、共和政ローマ末期の軍人であり政治家。三頭政治の一頭。息子に小ポンペイウス(ポンペイウスと同名)とセクストゥス・ポンペイウスがいる。

紀元前106年、グナエウス・ポンペイウス・ストラボの息子として生まれた。紀元前83年民衆派打倒のため、元老院派スッラブリンディシに上陸すると、23歳のポンペイウスは、自分の領地で徴募した3個軍団相当の兵を引き連れて合流し、スッラを大変喜ばせた。2年に渡ったこの戦争で、ポンペイウスはスッラ軍の司令官の1人として頭角を現した。
スッラによるイタリア制圧後、わずか25才でアフリカに逃げた反スッラ派鎮圧の総司令官を任され、その大役を見事に果たした。スッラはその功績を認め、ポンペイウスに凱旋式を許した。この時期、スッラは冗談でポンペイウスを「マグヌス(偉大なる者)」と呼んだ。

スッラの死後、ポンペイウスはローマを代表する名将として活躍した。紀元前72年ヒスパニアでローマ軍を苦しめていたセルトリウスの反乱を鎮圧、紀元前67年地中海全域の海賊掃討作戦をわずか3ヶ月で完了させるなど手腕を発揮した。
紀元前66年からは第三次ミトリダテス戦争の指揮をルクッルスから引き継ぎ、小アジアを平定後、パレスティナに遠征し、地中海東岸地方をローマの支配域に組み込んだ。この頃から、彼は自分でも『ポンペイウス・マグヌス』と称するようになった。

共和政の体制下では異例の長期に渡る出征を繰り返し、紀元前61年に3度目の凱旋式を挙行したポンペイウスを、その比肩する者のない実績と国際的な名声、軍団兵からの圧倒的な支持等を独裁権力者の予備軍と観て、元老院は警戒するようになった。元老院は、凱旋したポンペイウスに対して、彼の行った支配地域の再編成の承認をなかなか与えず、彼に従って遠征してきた兵士達への退職金(この当時では土地給付が多かった)給付を渋るなど、ポンペイウスの面子を潰すような嫌がらせをした。
苛立ちを募らせたポンペイウスは、それまでスッラ派、即ち元老院派と目されていたにもかかわらず、紀元前60年カエサルが提案した三頭政治クラッススと共に参加した。彼ら三頭は、その名声と軍団兵の組織票と資金力によって市民集会を操作し、元老院に代わってローマの政界を支配した。またポンペイウスは離婚して独身だったので、同盟を確かなものとするため、カエサルの娘ユリアと結婚した。政略結婚で年齢も離れていたが、夫婦仲は非常に良かった。なお、前妻ムチアを離婚したのは、カエサルと浮気したからである。

クラッススがパルティア遠征に失敗して戦死し、三頭政治が崩壊すると、今度は元老院保守派に担がれてカエサルと対峙した。紀元前52年クロディウス暗殺によって頂点に達したローマの政治・治安の混乱から回復するため、先例のない単独の執政官に任ぜられ(共和政維持の最強硬派小カトーの提案による)、その後ポプラレス(民衆派)のカエサルの独裁的傾向を恐れた元老院に支持されて、オプティマテス(閥族派)の中心となった。
優れた将軍であるポンペイウスを味方につけた元老院は気が大きくなったのか、ガリア平定を完了して翌年の執政官職を狙うカエサルに対して強硬な態度を取った。元老院は、多くの反元老院派を葬ってきた伝家の宝刀元老院最終勧告をカエサルに発し、属州総督解任(軍団指揮権を失う)と本国召還を通告した。召還に応じればカエサルは破滅だったが、応じなければ国家の敵とみなされ、ポンペイウス率いる「正規軍」に攻められることも明らかだった。カエサルは、国禁を破り、軍団を率いてルビコン川を越えることを決意した。

ルビコン川を越えることは想定していなかったポンペイウスや元老院は意表を突かれた。無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスは、兵を集めつつ南に逃げ、最終的にはイタリアを捨ててギリシャに渡った。カエサルを恐れた多くの元老院議員たちも、ポンペイウスを頼ってギリシャに逃れた。その中には、後にカエサルを暗殺したマルクス・ユニウス・ブルートゥスも加わっていた。

この時点でカエサルの支配下にあった地域は、ガリア全域とイタリア本国のみで、当時ローマの支配下にあったその他の地域(スペイン、北アフリカ、小アジア、シリア、ギリシャ)は全てポンペイウスの支配下にあった。
カエサルはポンペイウスの地盤であるスペインを平定することに成功したが、配下の将軍が北アフリカで敗れた。カエサルは、地盤の切り崩しから直接の決戦に戦略を変え、軍を率いてギリシャに上陸した。ポンペイウスもそれを知って数倍の軍を率いて迎え撃った。前哨戦とも言えるドゥラキウムの戦いではカエサルを撤退させたが、ファルサロスの戦いでカエサルに完敗した。ポンペイウスは船でエジプトに逃れたが、プトレマイオス13世の側近により暗殺された。

彼の長男グナエウス(小ポンペイウス)は父の死後も反カエサルを貫き、最後はアフリカで討たれた。次男セクストゥスも戦い続け、カエサルの後を継いだオクタウィアヌスによって討たれた。

関連項目

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