北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)とは、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)に対して、日本が返還を求めている領土問題。この島を、北方四島とも言うことがある。
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地理的には南千島に属するが、色丹島及び歯舞諸島については北海道本島の属島という見方もある。アイヌ民族が先住していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)後、現在に至るまで、ソ連・ロシア連邦に占領・実効支配されており、日本は固有の領土としてその返還を求めている。現在、日本人の北方領土関係者およびロシア人北方領土居住者に対して、ビザなし渡航が日露双方に一部認められている。
なお、北千島を含めた千島列島全体の返還を主張している主要政党は日本共産党だけである。全千島は樺太・千島交換条約で平和裡に手に入れた領土だからという主張である。また、日本の一部には日ソ基本条約などを根拠に「南樺太・千島列島全島返還論」もある。
日本が「国際法上所属未定」と主張する中、日本以外の多くの国は、中・北千島や南樺太については、ロシアの領有権を事実上認めるようになっている。海外の地図はすべて、中・北千島と南樺太をロシア領として処理している。「北方領土」についても、やはりロシア領と地図上で表現する例がほとんどであり、根室海峡のみに国境線がひかれているが、あわせて地図上の「北方領土」部分に「ロシアが施政権を行使(ないしは占領)、日本が返還要求」という趣旨の記述を加えている地図出版社も見られる。 [1]
日本政府は2001年、南サハリンのユジノサハリンスク(旧、日本名:豊原)にロシアへの公式外交使節として領事館を設置した。
ロシア連邦が自国領土だとして占領・実効支配している諸島を、日本が返還を求めている領土問題。
1945年8月8日、ソ連は同年2月のヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を破棄し、日本に対し宣戦布告、8月9日より戦争状態に突入した。ソ連はれっきとした連合国の一員であるにもかかわらず、日本は日ソ中立条約の形式的な有効性に救いを求め、連合国との講和をソ連に依頼を試みて降伏を先延ばしにした挙句、この宣戦布告を招いたものである。8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、1945年8月28日から9月5日にかけてソ連軍は北方領土に上陸し占領した。北方領土は現在に至るまで戦後約61年に渡りソ連およびそれを継承したロシアが実効支配を継続している。ロシアによる事実上の領有状態の為、日本政府が領有権を主張しているものの、一切の施政権は及んでいない。
日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争(大東亜戦争)以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が日本人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られているので厳密に言えば、日本政府の説明は正しいとはいえない。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印した。この時、南樺太・千島の日本軍は極東ソ連軍に降伏することが命令され、南樺太・千島はソ連の占領地区となった。1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。この条約にソ連は調印していないため、ソ連との国交回復は、1956年日ソ共同宣言により行われた。この時、日ソ間で領土の帰属に関して合意が得られなかった。その後、日ソ・日ロ間には、幾つかの共同声明や共同コミュニケがあるが、平和条約締結や領土問題での合意に至っていない。
1941年4月、日ソ間で、日ソ中立条約が締結された。その2ヵ月後、ドイツが突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。日本政府は、御前会議において、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱を策定、独ソ戦が日本に有利に働いたときはソ連に侵攻することを決めた。さらに、日本軍は関東軍特殊演習(関特演)を実施、ソ連侵攻の準備を整えた。しかし、日本政府の思惑とは異なって、独ソ戦は膠着し、日本のソ連侵攻の機会は得られなかった。
ソ連はスターリングラード攻防戦・クルスク戦車戦以降、独ソ戦を有利に展開するようになる。こうした中、1943年11月、テヘラン会談が米・英・ソ三国首脳により開かれ、当面の戦争、戦勝権益の連合国間での分割、連合国の覇権におかれる戦後世界の戦略に関して幅広い協議が行われた。このなかで、米国はソ連に対して、南樺太・千島を与える見返りに、日本との戦争に参戦することを求め、合意された。このときの合意は、1945年2月のヤルタ協定に引き継がれ、さらに、ポツダム会談でも再確認されている。
当時アメリカは米国人の戦争犠牲をなるべく少なくすることを狙っており、そのためには、ソ連の対日参戦が必要だった。独ソ戦で大きな被害を受けていたソ連国民には、更なる戦争への参加をためらう気持ちも強かったが、戦後世界の勢力バランスを考慮したスターリンは米国の参戦要求を了承した。当初ポツダム宣言への連名は、日本と交戦状態に無いソ連は除外されていたが、ソ連は参戦後、ポツダム宣言に参加した。その後、アメリカ主導で作成されたサンフランシスコ講和条約においても、既にソ連が占領している南樺太や千島をヤルタ会談での取り決め通り日本に放棄させる内容となっている。
1945年ドイツ敗北の3ヵ月後、ソ連は米・英との合意にしたがって対日宣戦布告。翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から解放した。満州の日本軍は、蒋介石の国民党軍ではなく、ソ連軍に対し降伏すると取り決められていた。翌年3月12日、蒋介石の駐留要請を断って、ソ連軍は、瀋陽から撤退を開始し、5月3日には旅順・大連に一部を残し、完全に撤退した。 一方、南樺太では、8月11日、日ソ国境を侵犯し、日本に侵攻したソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。樺太占領軍の一部は、26日に樺太・大泊港を出航し、28日択捉島に上陸、9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領されている。
1945年9月2日、日本は降伏文書に調印し、連合国の占領下に入った。千島・南樺太はソ連の占領地区とされた。
1952年サンフランシスコ講和条約発効により、日本は独立を回復したが、同条約にしたがって、南樺太・千島列島の領有権を放棄した。条約締結に先立つ1946年末から、日本は米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。この中の2冊は千島に関する事項であることが知られている。このような経緯があって、千島列島の範囲が、日本に不利なように定義されなかったが、同時に、日本に有利なように定められることも、なかった。
サンフランシスコ講和条約をソ連は調印しておらず、ソ連とは、1956年日ソ共同宣言によって、国交が回復した。このとき、日ソ間では歯舞諸島・色丹島の返還で合意しようとする機運が生まれたが、米国が沖縄の米属領化をちらつかせて恫喝したため、平和条約を締結することはできなかった。当時は、冷戦体制が構築されるプロセスの中にあり、イギリスとアメリカは日本がソ連と妥協することを望まなかった。このため、デタントを求めるソ連に対して受け入れがたい条件を提示することで、極東地域の冷戦体制を温存する狙いがあった。また、国後と択捉を返還させることで、ヤルタなどで米国がソ連に対し行った過度の譲歩を現実に是正し、少しでも北東アジアでソ連がもつ地政学的な優位を掘り崩したいたいという思惑もあった。以後、米国と親密な関係を維持する日本の外務省は、北方領土問題を掲げることで、ロシアとの踏み込んだ友好関係を築かない方針を貫いている。結果、現在もロシアとの平和条約締結に向けて交渉が行われているが、領土問題に関する具体的な成果は得られていない。
こういったことから、日本人のソ連(ロシア)に対する不信感がかきたてられている。
ロシア(ソ連)側から見れば、大戦当時ソ連・アメリカ・イギリス・中国は連合国であり、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国とは敵対していた。枢軸国のイタリアやドイツが降伏した後、ソ連は連合国の求めに応じて対日参戦した。ヤルタ会談で千島・南樺太の割譲は米英ソの三者で合意されているし、ソ連も参加しているポツダム宣言を日本は無条件で受け入れている。平和条約の締結こそしていないがロシアは占領地区を既に自国へ編入している。そもそもサンフランシスコ条約で日本はクリル列島を放棄しており、クリル列島には、択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島が含まれる。(色丹・歯舞を合わせて小クリル列島といい、占守島から国後島までを大クリル列島と言う。小クリル列島と大クリル列島を合わせてクリル列島と言う。)
ロシア側が北方領土の日本返還を認めない理由としてはいくつか考えられるが、まず大きなものとして、ロシア側から見た場合、北方領土問題が解決されていない現在でも日ロ間の経済的交流は進んでおり、わざわざ国民の不評を買うであろう領土の引渡しを行ってまで日本サイドに譲歩する必要性を感じていないということが挙げられる。また、地政学的に見れば、宗谷海峡(ラペルーズ海峡)、根室海峡(クナシルスキー海峡)をふくめ、ソ連はオホーツク海への出入り口をすべて監視下に置いており、事実上そこから米軍を締め出すことに成功しているが、国後・択捉両島を返還してしまえば、国後・択捉間の国後水道(エカチェリーナ海峡)の統括権を失い、オホーツク海に米軍を自由に出入りさせられるようになってしまう。国後水道は、ロシア海軍が冬季に安全に太平洋に出る上での極めて重要なルートでもあり、これが米国(の同盟国である日本)の影響下に入ることは安全保障上の大きな損失となる。
以前であれば日本側に「ロシアは経済的に困窮している。よってそのうちロシア側が経済的困窮に耐えられず日本側に譲歩し、北方領土を引き渡すであろう」という目論見があった。鈴木宗男失脚以後の日本の外務省の基本戦略は、北方諸島への援助を打ち切り、困窮させて返還の世論を引き出そうとする「北風政策」であるが、問題は、経済的に困窮しているかどうかといったレベルの事項ではない。事実、プーチン大統領就任以降驚異的な経済的発展を遂げたロシアは、2015年を目標年次とする「クリル開発計画」を策定し、国後、択捉、色丹島に大規模なインフラ整備を行う方針を打ち出した。
最近でこそロシア社会において日本に対する認知度は高まってきているものの、いずれも文化的なものか経済的なものであり、またその認識にしてもそれほど深いものではない。サハリン州では、当然日本に対する関心が深いが、これは、現状の国境を承認することを前提として交流を深めようとするものである。 ヨーロッパ議会が北方領土は日本に返還すべきとの提言を出したとの報道がロシアのメディアで流れている。25カ国730人の議員でなるEUの立法機関であるヨーロッパ議会は2005年7月7日に「ECと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文を決議、極東の関係国は未解決の領土問題解決の2国間協定を結ぶべきだとし、具体的には北方領土に関して第二次世界大戦終結時にソ連により占領されたものとし日本と韓国間の竹島問題、中国との尖閣諸島問題を取り上げている。 ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられず、日本では読売新聞が報じた程度である[3]。
(和訳原文の一部)
1943年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に米・英・中がカイロで首脳会談をおこなった。この時のカイロ宣言では、日本の侵略を制止し、日本を罰し、1914年の第一次世界大戦以後日本が奪取した太平洋上の領土を奪還することや、満州・台湾を中国に返還することを目的としている。また、米・英・中には領土拡張の考えがないとしている。カイロ宣言は、米・英・中の宣言であるため、ソ連と関係した南樺太や千島列島は、同宣言の奪還の直接対象とはなっていない。
ポツダム宣言 八 (和訳原文)
ポツダム宣言ではカイロ宣言を履行されなければならないとしている。カイロ宣言では南樺太・千島には言及されておらず、ポツダム宣言でも千島列島・南樺太に関する言及は無い。ただし、四国よりも大きい樺太が諸小島に含まれるとも解釈できない。宣言ではソ連への千島・南樺太の譲与にも言及がない。
占領は連合軍「一般命令第一号(陸、海軍)」にしたがって行われた。翌年1月、連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号により、日本政府は、竹島・琉球・千島・歯舞群島・色丹島・南樺太などの地域における行政権の行使を、正式に中止させられた。その直後、ソ連は占領地を自国の領土に編入している。サンフランシスコ平和条約に調印していないソ連が占領した島々を、ロシアが現在も実効支配している。
第二章 領域 第二条(c) (和訳原文)
日本はこの条約でソ連の調印のないまま千島列島を放棄する。条約では千島列島の範囲は明確になっていないが、国会議事録によると、政府は、日本が放棄した千島列島に国後・択捉が含まれると説明している。平和条約は、放棄した千島列島に国後・択捉が含まれるとの認識のもと、国会承認されている。この説明は国内的に1956年2月に正式に取り消され、その後、日本は「北方領土は日本固有の領土であるので、日本が放棄した千島には含まれていない」としている。
日ソ共同宣言(昭和三十一年条約第二十一号) 9
1955年6月、松本俊一を全権代表として、ロンドンで、日ソ平和条約交渉が始まった。当初、ソ連は一島も渡さないと主張していたが、8月9日、態度を軟化させ、歯舞・色丹を日本領とすることに同意した。松本はこれで、平和条約交渉は妥結すると安堵したが、日本政府は、突如、国後・択捉を日本領とすることを主張、交渉は行き詰まった。
1956年7月、重光葵外相を主席全権、松本を全権として、モスクワで、日ソ平和条約交渉が再開された。当初、重光は四島返還を主張したが、ソ連の態度が硬いと見るや、8月12日、歯舞・色丹二島返還で交渉を妥結することを決心し、本国へ打診。ところが、当時、保守合同直後の与党には、派閥間の思惑もあり、重光提案を拒否、日ソ平和条約交渉は膠着した。さらに、8月19日、重光はロンドンで米国務長官ジョン・フォスター・ダレスと会談、席上ダレスは、二島返還で妥結することをきびしく禁止し、4島返還を主張しないならば、沖縄の返還も無いと指摘した。保守党内部の反鳩山勢力の思惑や米ソ冷戦下の米国の指図などにより、平和条約交渉は完全に行き詰まった。
1956年10月、鳩山首相は局面を打開すべく、領土問題を棚上げして、すでに妥結している他の問題(戦争の終結、国交回復、未帰還日本国民送還など)で条約(日ソ共同宣言)を締結することを決断、自らモスクワに渡りソ連との交渉に当たった。モスクワ交渉に先立ち、領土問題は棚上げすることで両国の合意が得られていたにもかかわらず、訪問直前になって、自民党は歯舞・色丹を日本領と確約することを共同宣言締結の条件とすることを決議、日ソ共同宣言締結に新たな条件をつけた。鳩山はフルシチョフとの会談で、歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡すことを明記することに成功、日ソ共同宣言の締結を果たした。(参考、松本俊一著『モスクワにかける虹』)
1956年日ソ共同宣言では歯舞、色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ(終戦後の日本国との平和条約にはソ連は調印していない)。しかし、択捉、国後の帰属を巡って対立、結局合意できなかった。その後、冷戦の進行によりソ連の立場は領土問題は解決済みへと変化した。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。
1991年の4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。1997年のクラスノヤルスク合意では、日本は「すべての分野について両国の関係を発展させる。その中に領土問題を含める」とし、両国の間で領土問題が明文化、共有された。
日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。
2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。 また、ロシア側も、石油の高騰による経済成長で日本に対し優位であることと、ラトビア、エストニアもソ連併合時に国境を変更させられたことから、両国などとの間にも国境問題を抱えており、北方領土解決を複雑にしている。
北方領土四島には色丹村・泊村・留夜別村・留別村・紗那村・蘂取村の6村が地方自治体として存在していた。
現在では「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年8月)第11条により日本国民の誰でも本籍を置くことが可能となっている。これは上記6村が元来北海道根室支庁に属する自治体であったため、各村自治体が実効的な存在を喪失して以降も上位の地方自治組織が機能しているためである[5]。現在この手続きは根室市役所が行っている。
現在、ロシアの施政権が行使されている状態にある北方四島は、ロシアの行政区分ではサハリン州に属しているものとされている。
また、この地域は開発が遅れたためにカニやウニなどの魚介類を始め、ラッコやシマフクロウなど、北海道をはじめとした周辺地域では絶滅あるいはその危険性が高い生物の一種の「聖域」状態となっている。ロシア政府は北方領土を含む千島一帯をクリリスキー自然保護区に指定して、禁猟区・禁漁区を設定するなど、日本の環境保護行政以上の規制措置が取られている。だが、ソ連崩壊後には密猟などが後を絶たず、一部の海産物は日本国内に流れているという説もある。
現在、一部の環境保護団体の間には北方領土を含む千島一帯の世界遺産登録を求める主張があり、また日本の環境保護行政は水産関係団体や開発業者に対して甘すぎるため、領土返還後には貴重な生態系が破壊される恐れがあるとして返還を危惧する人達もいる。一方、日本国内にも領土問題とは一線を画して、北方領土の対岸で先に世界遺産に登録されている知床とともに、日露両国が共同で一つの世界遺産地域を作っていくべきである、という声もある。だが、世界遺産に登録された状態の北方領土が返還された場合、旧島民の持つ土地所有権や漁業権をどうするのかについて不透明であるために、何らかの特別法制定が必要となる可能性がある。
日本政府が従来から主張している四島一括返還論の他にも、北方領土問題については、日露両国で様々な解決策が提言されている。以下はその主なものである。
歯舞・色丹の両島を日本領とすることでは、四島一括返還論も含めた全ての案で一致しており、それぞれの案で異なる点は、残りの択捉・国後の両島への対応である。
二島返還論は日本側においては主に「二島先行返還論」または「2+2方式」と称される案を指す。これは、日ソ共同宣言で日本への返還が確認されている歯舞・色丹の二島を、ひとまず日本側に返還させ、残った択捉・国後の両島については、両国の継続協議とする案である(二島返還論で詳述)。この方式の支持者としては鈴木宗男が知られており、当時の首相であった森喜朗も訪露した際、ロシア側へ提案したこともあるが、先方からは拒否された。鈴木宗男は、「二島先行返還論」はマスメディアによる造語であるとして、自らの立場を「段階的返還論」と呼んでいる[6]。対して、ロシア側における二島返還論とは主に、歯舞・色丹の返還のみでこの問題を決着させようとする案のことであり、現在のロシア政府の公式見解である。
三島返還論は別名を「フィフティ・フィフティ」と言い、中国とロシアが係争地の解決に用いた方式である。この方式では、領土紛争における過去の経緯は全く無視し、問題となっている領域を当事国で半分ずつ分割する。これを北方領土に形式的に当てはめると、国後島が日本領、択捉島上に国境線が引かれる、三島返還論に近い状態になる。岩下明裕(政治学者はこの案を称揚しているが、もともとこの方式は、戦争により獲得した領土ではなく、単に国境をはさんだ2国のフロンティアがぶつかって明確な国境線が決め難かったケースに用いられたもので、北方領土問題には適用し難く、四島一括返還論に比べ実現する可能性が高いかどうかは不明瞭である。三島返還論に言及した政治家には、鳩山由紀夫、河野太郎らがいる。
共同統治論は「コンドミニウム」とも呼ばれ、近現代史上にいくつかの例がある[7]。成功例として代表的なものにはアンドラがあり、失敗例には樺太やニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)がある。具体案としては、例えば、かつてのアンドラのように、日露両国に択捉・国後の両島への潜在主権を認めながらも、住民に広い自治権を与えることで自治地域とすることが考えられる。もし日露両政府が島の施政権を直に行使すれば、日露の公権力の混在から、樺太雑居地(1867-1875)のような混乱を招く可能性が指摘されている。このため、住民に自治権を認め、両政府が施政権を任せることで、そうした混乱を防ぐことが必要になる。また、両島を国際連合の信託統治地域とし、日露両国が施政権者となる方法も可能である。この場合は施政権の分担が問題となる。
共同統治論の日本側にとってのメリットとしては、難解な択捉・国後の領有問題を棚上げすることで、日本の漁民が両島の周辺で漁業を営めるようになることや、ロシア政府にも行政コストの負担を求められることなどが挙げられる。ロシア側にとってのメリットは、日本から官民を問わず投資や援助が期待でき、また、この地域における貿易の拡大も望めることである。共同統治論には、エリツィンや鳩山由紀夫、プリマコフ、ロシュコフ駐日ロシア大使(当時)、富田武(政治学者)らが言及している。
面積2等分論は歯舞諸島、色丹島、国後島のすべてを足しても、鳥取県と同等の面積を持つ択捉島の半分に満たないことから浮上した案。国後など3島に択捉の西部(旧留別村)を加えれば半分の面積になる。麻生太郎外相が2006年12月13日の衆議院・外務委員会での前原誠司(民主党前代表)の質問で明らかにしている。麻生は安倍内閣発足直後の報道各社のインタビューに「2島でも、4島でもない道を日露トップが決断すべき」と発言しており、この発言は世論の反応を見定めるアドバルーン発言の可能性が強い。現実にその直後、外務省との関係が深い福田康夫元官房長官が麻生案を激しく批判しており、この案が外務省主導ではなく、官邸も一部容認であることを窺わせる。福田は2006年7月に自民党総裁選から撤退して以降、公の場ではほとんど発言していない。2007年8月に外相に再登板した町村信孝は麻生案を「論外だ!」と激しく批判。同領土問題の原則を、従来通り「4島一括返還」での問題の解決に当たることを強調した。
なお、以上の四案の他に、北方四島の潜在主権をロシアに残しつつ、その施政権を日本へ賃貸することがロシアの研究者から提案されたこともある。