大衆車(たいしゅうしゃ)とは、一般労働者階級にも購入できるよう、価格を抑えて販売される乗用車の総称である。国民車(こくみんしゃ)とも呼ばれる。
対義語に当たるものとしては高級車がある。
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これらの乗用車は、モータリゼーション以降、大衆がその日常生活に於いて自家用車を求める需要に応じて様々な企業から発売された。特に企業が自主的に設計・開発・生産を行って販売したものもあれば、企業が政府の依頼を受けて開発したものもある。
特にこれらの自動車では、開発・企画の際には以下の点が重要視される。
これらの要件は一般の乗用車でも幾つかの項が求められるが、特に大衆車ではそれら全てが強く求められる。また「軽量低燃費と家族全員が乗れる広い室内」や「安価では有っても壊れ易くてはいけない」という相反する要素もあり、実際にこの要件を全て満たす自動車の設計は特有の難しさがあり、広く大衆車として認識され得る車種は、世界的にも非常に限られる。これらの理由のため各自動車メーカーでは、これら大衆車を少なくとも一車種位は作っているものの、あまり頻繁にモデルチェンジが見られないなど、定番商品でありながら華々しくは扱われないという側面も持つ。
その半面、長い年月にわたって日常生活に即した使われ方をすることもあって裾野の広いファンや顧客を獲得し、熱心なユーザーが含まれるのが常である。また製造中止後数十年に渡ってレストアされた物が愛用されるケースも見られ、また生産台数も相当数になる事から、これらを対象とするレストア産業に於いては、部品調達がしやすいとされる。
太平洋戦争終結から、日本の自動車工業を取り巻く環境の変化は次のようになる。
| 1947年(昭和22年) | 8月 | 自動車輸出の再開 |
| 1948年(昭和23年) | 2月 | GHQが貿易業者入国制限を解除 |
| 4月 | トヨタ、日産自動車、ヂーゼル自動車、新・三菱重工業、高速機関工業の5社を会員とする「自動車工業会」が発足 | |
| 1949年(昭和24年) | ー | 中華人民共和国成立 |
| 10月 | GHQが日本の乗用車生産制限を解除 | |
| 1950年(昭和25年) | 6月 | 朝鮮戦争勃発(朝鮮特需) |
| ー | 「自動車工業不要論」をめぐる論議 | |
| 1951年(昭和26年) | 6月 | 「道路運送車両法」を公布 |
| 9月 | サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調印 | |
| 1952年(昭和27年) | 3月 | 「企業合理化促進法」の成立 |
| 4月 | サンフランシスコ講和条約発効 | |
| 10月 | 「乗用自動車関係提携および組立契約関する取扱方針」発表 | |
| 1954年(昭和29年) | 4月 | 日比谷公園で第一回「全日本自動車ショー」を開催 |
| 9月 | 「道路交通取締法」改正 | |
| 1955年(昭和30年) | 5月 | 「国民車育成要綱案(国民車構想)」をめぐる論議 |
1945年9月、GHQは日本のトラック生産許可に引き続き、1947年6月に台数限定つきで小型乗用車の生産を許可。とはいえ、戦後の急激なインフレーションを抑制するためにGHQが実施した金融引き締め政策(ドッジ・ライン)による不況に翻弄されていた当時の日本人に、乗用車を所有することなど考えることすらできなかった。
ところが、1949年の中華人民共和国の成立と1950年6月の「朝鮮戦争」の勃発で状況は一変。GHQは早急な占領政策の終結に向け、平和条約の締結と日本の経済的自立のために国内産業の育成の必要性に迫られた。
また朝鮮戦争の軍需物資調達のための、いわゆる朝鮮特需により、1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴される空前の好景気に日本は沸き、1960年の池田勇人内閣の「所得倍増計画」の発表など、日本の戦後復興は着実な歩みを進めていた。
そうした中、1954年9月、「道路交通取締法」が改正されて、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000、2ストローク、4ストロークエンジンともに排気量360cc以下と統一され[1]、この新規格に沿って開発された日本初の本格的軽自動車として、1955年10月、鈴木自動車工業がドイツのロイトを手本に、スズライトSFを発売している。
そして、1955年5月、通産省(現経済産業省)の「国民車育成要綱案(国民車構想)」が当時の新聞等で伝えられた[2]。同構想では一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという物である。要件は以下のとおりである。
この計画に、国内各自動車メーカーは「実現不可能」と消極的な反応が多かったが、1956年9月にはトヨタが、空冷4ストローク2気筒700cc、FF方式の「A1型[3]」計画を発表したり、小松製作所が国民車政策を発表するなどの動きはあった。
当時、自動車市場への新規参入を狙ったスバル・1500(P-1)の発売断念から、1955年から新規軽自動車規格に沿った新型軽自動車の開発に取り組んでいた富士重工業は、航空機製造で培った経験を取り入れ1957年2月に試作第一号車を完成。1958年3月に「スバル・360」として発表、5月から発売した。
スバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち軽乗用車市場を確立した。
ただし、百瀬晋六ら富士重工の開発スタッフは、以下の要求を優先したものであり、スバル360は「国民車構想」に沿って開発されたものではない。
これに続き、1959年9月、鈴木自動車工業もスズライトをモデルチェンジした「スズライトTL」を発売。1960年には東洋工業がR360を、1962年10月には、新・三菱重工業が三菱・ミニカを、1966年にはダイハツが「フェロー」を発売。軽自動車市場は一気に活況を呈することになった。
また、小型車では1960年4月に発売された新・三菱重工業の「三菱・500」、1961年4月のトヨタの「パブリカ」の発売に結実した。
「国民車構想」は、通産省が自ら企画したそれに沿って開発・発売された「大衆車」に対して補助を行うことはなかった。
それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対し、著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、非常に大きな貢献があったとされる。一方、日本の自家用車の普及はこれにとらわれることなく開発されたスバル360の功績であり、国民車構想の影響はほとんど無いとする意見もある。
これらの乗用車は上記要件を満たすため、その多くが小型のエンジンを搭載し、そのエンジンで駆動できるよう軽量化のために、やや小型の物が多い。またこの他にも国によって異なるニーズにより、一定の違いも見られる。特にこれらの多くが第二次世界大戦以降に開発されたのは、軍需産業の民生品への転換と、経済復興による大衆の購買力向上に関係する。現在では、ミニバンや排気量1.5リットル以下のコンパクトカーを一般大衆車という。
なお生産国の経済成長が大衆の所得を押し上げ、一般の労働者が持つ購買力が一定以上に達したため、これら一般大衆車の多くは「自動車の普及」という役割を終え、装備の充実した後発車に市場を譲るか、それら裕福になった家族向けの快適な居住性を持つファミリーカーへと変化している。
日本では第二次世界大戦以降の1960年代より大衆車の開発と販売が進んだ。特に起伏に富んだ国土のため登坂性は重要視され、また高負荷でもオーバーヒートし難く、未舗装路が多かったことから、丈夫な足回りが求められた。
農業大国で不整地も多かった事から、悪路での走破性が求められる上、石畳での乗り心地も重要なため、他国の車に比べて、サスペンションストロークが大きく、シートも大柄でソフトなものが多い。使用速度域が高いことから、キャスターアクションも強く、直進性が非常に良い。このため、フランス車は安いクルマでも、椅子の出来がよく、木の根が盛り上がった並木道でも運転が楽といわれている。
詳細はシトロエン・2CVを参照
詳細はルノー・4を参照
都市部では狭い路地が極めて多い事から、小型の物が求められたが、欧州人の長身が収まる必要性から、広い室内も重要視され、当然ながら、石畳で故障しにくいサスペンションも求められた。
ただ第一次世界大戦前までは自動車と言えば高級品かつ贅沢品であった。米国では一般向け市場でも1900年代当初のオールズモービルやその後につづくフォードが先んじていたものの、階層社会も根強いこともあってか英国では、大衆車というよりも、単に小型車というカテゴリーに属する車両である場合も少なくない。その中で労働者階級でも手の届く大衆車は連綿と作られていた。この中で育まれた設計は後に世界各地で主要部品を輸入して現地で製品を製造するノックダウン生産が行われるなど、大衆車のみならず自動車産業の初期において英国が果たした役割も大きい。こういった中で、メーカー一社に収斂されない複雑なシリーズ車の系譜も見られる。
詳細はオースチン (自動車)を参照
詳細はMiniを参照
エリートのみでなく、一般国民が自由に、また廉価に旅行できる手段として開発された。購入方法は毎月の積立金制度を利用する。特に長距離走行でも故障を起こさない事が求められ、また燃費の良さも重要視された。国民車開発と平行して世界的にも類を見ない長距離高速道路網アウトバーンの整備が1930年代より開始された。
狭く入り組んだ路地が多く、また第二次世界大戦の敗戦から経済的に立ち直っていなかった時代にはとにかく小型・安価な物が求められた。
最も早くモータリゼーションを経験した国。未開地が多く存在していたため、悪路での走破性や修繕のしやすさが求められた。
寒暖の差が激しい砂漠気候の環境における耐久性が重視された。反面、産油国であるために燃費は余り重要視されなかった。
日本の大衆車は米国に輸出され、1980年代には日米貿易摩擦からきたジャパンバッシングといった感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆と言うわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代の頃まで待たねば成らなかった。
日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタはクラウンとランドクルーザー、日産はダットサン・トラック220型、セダン210型、スポーツS210型を輸出している。3900ccの排気量を持つランドクルーザーは評判が良かったのだが、クラウンは当時トヨタの最高級車でありながら、高速躁安は危険とされるレベルであり、オーバーヒートや焼きつきも頻発・早々に輸出が中止されるという状況であった。
ダットサン各車は、もともと丈夫なオースチンのコピーであったためスピードが足りない以外では大きなトラブルは無かったが、貧相で小さすぎるため、売れ行きは芳しくなかった。トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと日本車の米国進出ではやや後発の部類に入り、ここから日本車の米市場への挑戦が始まったのである。
市場経済の成長期に登場したこれら大衆車は、最初の内こそ人々の生活向上心を煽り、盛んに販売・消費されるが、次第に経済的成長傾向が鈍化すると、飽和状態に陥って、消費者の関心が細分化する傾向があることから、これら画一的な大衆車への関心が薄れる傾向が見られる。
このため大衆車の勃興は、一種の経済的指標と見なす事が可能である。現在、日本や米国といった経済的にも豊かな社会にあっては、これら大衆車の多くは生産を終了しているか、一定の高級感を出すことでファミリーカーへの転換が図られている。
一方、経済的に成長過程にある国では、国内経済発展とともに、自動車利用が大衆にも広まり、これら大衆車を求める傾向が見られる。中国では現在、国内外の自動車メーカーが競って大衆車を発表、巨大市場と目される中国大衆車市場を巡って販売合戦が行われている。