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大衆車

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月4日 (日) 20:45。)

大衆車(たいしゅうしゃ)とは、一般労働者階級にも購入できるよう、価格を抑えて販売される乗用車の総称である。国民車(こくみんしゃ)とも呼ばれる。

対義語に当たるものとしては高級車がある。

目次

概要

これらの乗用車は、モータリゼーション以降、大衆がその日常生活に於いて自家用車を求める需要に応じて様々な企業から発売された。特に企業が自主的に設計・開発・生産を行って販売したものもあれば、企業政府の依頼を受けて開発したものもある。

特にこれらの自動車では、開発・企画の際には以下の点が重要視される。

  • 安価であること
  • 一定以上の走破能力があること
  • 軽量で燃費がよいこと
  • 故障が少なく維持費が掛からないこと
  • 家族(夫婦と子供といった最低でも3名以上)で乗れること

これらの要件は一般の乗用車でも幾つかの項が求められるが、特に大衆車ではそれら全てが強く求められる。また「軽量低燃費と家族全員が乗れる広い室内」や「安価では有っても壊れ易くてはいけない」という相反する要素もあり、実際にこの要件を全て満たす自動車の設計は特有の難しさがあり、広く大衆車として認識され得る車種は、世界的にも非常に限られる。これらの理由のため各自動車メーカーでは、これら大衆車を少なくとも一車種位は作っているものの、あまり頻繁にモデルチェンジが見られないなど、定番商品でありながら華々しくは扱われないという側面も持つ。

その半面、長い年月にわたって日常生活に即した使われ方をすることもあって裾野の広いファンや顧客を獲得し、熱心なユーザーが含まれるのが常である。また製造中止後数十年に渡ってレストアされた物が愛用されるケースも見られ、また生産台数も相当数になる事から、これらを対象とするレストア産業に於いては、部品調達がしやすいとされる。

日本の「国民車構想」

太平洋戦争終結から、日本の自動車工業を取り巻く環境の変化は次のようになる。

1947年昭和22年 8月 自動車輸出の再開
1948年(昭和23年 2月 GHQが貿易業者入国制限を解除
4月 トヨタ日産自動車、ヂーゼル自動車、新・三菱重工業、高速機関工業の5社を会員とする「自動車工業会」が発足
1949年昭和24年 中華人民共和国成立
10月 GHQが日本の乗用車生産制限を解除
1950年昭和25年 6月 朝鮮戦争勃発(朝鮮特需
「自動車工業不要論」をめぐる論議
1951年昭和26年 6月 「道路運送車両法」を公布
9月 サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約調印
1952年昭和27年 3月 「企業合理化促進法」の成立
4月 サンフランシスコ講和条約発効
10月 「乗用自動車関係提携および組立契約関する取扱方針」発表
1954年昭和29年 4月 日比谷公園で第一回「全日本自動車ショー」を開催
9月 「道路交通取締法」改正
1955年昭和30年 5月 「国民車育成要綱案(国民車構想)」をめぐる論議

1945年9月、GHQは日本のトラック生産許可に引き続き、1947年6月に台数限定つきで小型乗用車の生産を許可。とはいえ、戦後の急激なインフレーションを抑制するためにGHQが実施した金融引き締め政策(ドッジ・ライン)による不況に翻弄されていた当時の日本人に、乗用車を所有することなど考えることすらできなかった。

ところが、1949年中華人民共和国の成立と1950年6月の「朝鮮戦争」の勃発で状況は一変。GHQは早急な占領政策の終結に向け、平和条約の締結と日本の経済的自立のために国内産業の育成の必要性に迫られた。

また朝鮮戦争の軍需物資調達のための、いわゆる朝鮮特需により、1956年の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴される空前の好景気に日本は沸き、1960年の池田勇人内閣の「所得倍増計画」の発表など、日本の戦後復興は着実な歩みを進めていた。

そうした中、1954年9月、「道路交通取締法」が改正されて、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000、2ストローク4ストロークエンジンともに排気量360cc以下と統一され[1]、この新規格に沿って開発された日本初の本格的軽自動車として、1955年10月、鈴木自動車工業ドイツロイトを手本に、スズライトSFを発売している。

そして、1955年5月、通産省(現経済産業省)の「国民車育成要綱案(国民車構想)」が当時の新聞等で伝えられた[2]。同構想では一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという物である。要件は以下のとおりである。

  • 4人が搭乗した状態で時速100kmが出せる(ただし、定員のうち2人は、子供でもよい)
  • 時速60kmで走行した場合に、1リッターのガソリンで30kmは走れる
  • 月産三千台(構造が複雑ではなく、生産しやすい事)
  • 工場原価15万円/販売価格25万円以下
  • 排気量350~500cc
  • 走行距離が10万km以上走っても、大きな修理を必要としない事
  • 1958年秋には生産開始できる事

この計画に、国内各自動車メーカーは「実現不可能」と消極的な反応が多かったが、1956年9月にはトヨタが、空冷4ストローク2気筒700cc、FF方式の「A1型[3]」計画を発表したり、小松製作所が国民車政策を発表するなどの動きはあった。

当時、自動車市場への新規参入を狙ったスバル・1500(P-1)の発売断念から、1955年から新規軽自動車規格に沿った新型軽自動車の開発に取り組んでいた富士重工業は、航空機製造で培った経験を取り入れ1957年2月に試作第一号車を完成。1958年3月に「スバル・360」として発表、5月から発売した。

スバル360は、それまで各メーカーが「実現不可能」と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、たちまち軽乗用車市場を確立した。

ただし、百瀬晋六富士重工の開発スタッフは、以下の要求を優先したものであり、スバル360は「国民車構想」に沿って開発されたものではない。

  • 定員は大人4人
  • 車両本体価格35万円以下(実際の発売時は42.5万円)
  • 当時未舗装が多かった日本の主要道路で、60km/hで巡航できる事
  • 生産台数を確保する為、三鷹工場(合併前の富士産業)で生産していたラビットスクーター用のエンジンの生産ラインを転用できる事
  • 簡易的な自動車ではなく、海外メーカ車のライセンス生産やトヨタ・クラウン(初代)と比較して遜色の無い「乗用車」である事

これに続き、1959年9月、鈴木自動車工業スズライトをモデルチェンジした「スズライトTL」を発売。1960年には東洋工業R360を、1962年10月には、新・三菱重工業三菱・ミニカを、1966年にはダイハツが「フェロー」を発売。軽自動車市場は一気に活況を呈することになった。

また、小型車では1960年4月に発売された新・三菱重工業の「三菱・500」、1961年4月のトヨタの「パブリカ」の発売に結実した。

国民車構想」は、通産省が自ら企画したそれに沿って開発・発売された「大衆車」に対して補助を行うことはなかった。

それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対し、著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、非常に大きな貢献があったとされる。一方、日本の自家用車の普及はこれにとらわれることなく開発されたスバル360の功績であり、国民車構想の影響はほとんど無いとする意見もある。

大衆車の例

これらの乗用車は上記要件を満たすため、その多くが小型のエンジンを搭載し、そのエンジンで駆動できるよう軽量化のために、やや小型の物が多い。またこの他にも国によって異なるニーズにより、一定の違いも見られる。特にこれらの多くが第二次世界大戦以降に開発されたのは、軍需産業の民生品への転換と、経済復興による大衆の購買力向上に関係する。現在では、ミニバンや排気量1.5リットル以下のコンパクトカーを一般大衆車という。

なお生産国の経済成長が大衆の所得を押し上げ、一般の労働者が持つ購買力が一定以上に達したため、これら一般大衆車の多くは「自動車の普及」という役割を終え、装備の充実した後発車に市場を譲るか、それら裕福になった家族向けの快適な居住性を持つファミリーカーへと変化している。

日本

日本では第二次世界大戦以降の1960年代より大衆車の開発と販売が進んだ。特に起伏に富んだ国土のため登坂性は重要視され、また高負荷でもオーバーヒートし難く、未舗装路が多かったことから、丈夫な足回りが求められた。

画像:Subaru360early.01.jpg
スバル・360
愛称は「てんとう虫」
KE10D型カローラ2ドアセダン1100デラックス初代カローラ
KE10D型カローラ2ドアセダン1100デラックス
初代カローラ
  • カローラシリーズトヨタ自動車
    大衆向けでも家族3人以上で出かけることの多いニーズに向け、実用性と経済性に優れ乗り降りし易いセダン型(初代の発売当初は2ドアセダンのみでスタートしたが、その後4ドアセダンが追加される。それ以降は4ドアセダンが主力になる)の小型乗用車として開発された。またワゴンタイプ5ドアが小売商店など幅広いニーズに応えた。元来、トヨタ自動車が国民車構想に反応して作られたのはパブリカであったが、コスト削減から全般的に省略され過ぎていたため、生き残ったのはこのカローラであった。しかしパブリカの販売戦略における経験はカローラに活かされ、同社の低価格帯商品はスターレットおよびターセルコルサを経てヴィッツプラッツ(現在はベルタ)、パッソが受け継いでいった。高信頼かつ高品質なCセグメントクラスのファミリーカーへ確実に進化している。
B10型初代サニー
B10型
初代サニー
  • サニー日産自動車
    カローラとサニーはメーカーこそ違えど、日本の大衆車として世界に通用した両雄である。サニーは2004年9月を持ってブランドを終了したが、現在ではティーダシリーズ(米国ではセントラ)がその歴史を引き継いでいる。
画像:Suzuki Alto Shodai.jpg
前期型
初代アルト
  • アルトスズキ
    スズライトがその起源で、その後フロンテハッチで税金・任意保険料が安い貨物車でありながら2年車検という軽の利点をフルに使い顧客を開拓し軽ボンネットバンブームの草分け的な車種となった。そのためかかつては「軽自動車界のカローラ」と呼ばれていた。また1980年代後期に入ると、1987年当時軽自動車としてはクラス初のDOHCインタークーラーターボエンジンフルタイム4WDシステムを搭載し、64馬力(ネット値)の高出力を誇った高性能バージョンの「アルトワークス」もラインアップに加わった。現在もブランドは存続しているが、フラグシップとしての地位はKeiセルボに、主力(大衆車)としての地位はワゴンRに、それぞれ譲っている。
画像:L55v.jpg
初代ミラ
  • ミニバン全般
    現行車種では高級感を増したファミリーカーとして、アルファード日産・エルグランドホンダ・エリシオン等と言った、国産ミニバンが登場している。これらは趣味に遊びにと積極的な消費活動で自動車のみに財を注ぎ込まない未婚の青年層や家族向けセカンドカーなど、従来日本では軽自動車が便宜的に担っていた分野を開拓している。

フランス

シトロエン・2CV 試作車
シトロエン・2CV 試作車

農業大国で不整地も多かった事から、悪路での走破性が求められる上、石畳での乗り心地も重要なため、他国の車に比べて、サスペンションストロークが大きく、シートも大柄でソフトなものが多い。使用速度域が高いことから、キャスターアクションも強く、直進性が非常に良い。このため、フランス車は安いクルマでも、椅子の出来がよく、木の根が盛り上がった並木道でも運転が楽といわれている。

  • シトロエン・2CV

詳細はシトロエン・2CVを参照

1948年~1990年で累計生産台数385万台。2CVは発売当時の税制の分類によるコード名。基本コンセプトは「コウモリ傘に4つの車輪」。
当時まだ手押し車や馬車に頼っていた地方の農業従事者を主なターゲットとして開発され、生産物である生卵を商品として輸送する際に悪路でも割れることのないようなサスペンション(乗り心地)を設計の絶対要件とするなど独特の仕上がりとなっていた。悪路走破性と積載能力、そして経済性を最重点に置いて高級感は無視という設計思想であり、農村部の実地調査など徹底した市場調査により細部まで良く練られた設計であった。当時としても独特なデザインは「醜いアヒルの子」「乳母車」「缶詰」などと表現されたが、むしろこれらの評価は同車の見た目とは裏腹の使い易さに対する信頼や愛着の表現へと変化していった。工具を使うことなく屋根のカンバスやドアを外すことが可能で、その積載力はアップライトピアノが積めた。
フランスに限らず、ヨーロッパ中の大衆に高い支持を受け、イギリスをはじめ、各国で生産された。また、フランス的な美意識や合理性を体現した製品として愛され続けた。
後継車はディアーヌであったが、先代を越えることができず、先に生産終了した。
  • ルノー・4

詳細はルノー・4を参照

1961年~1993年(フランスでは1986年に生産終了)。累計生産台数813万台。
「4」は車名。排気量の小さい「3」も当初併売されていた。フランス読みでは「カトル」だが、日本では「キャトル」とも愛称される。またフランス本国ではバリエーション「4L」の読み「カトレール」が愛称として定着している。
当時既に大ヒットとなっていたシトロエン2CVの対抗製品として開発され、ドライブトレインのレイアウトも2CVと同様だった。デザインはやや近代化されているが、やはり積載能力を最大限に重視し、荷役を考慮したテールゲートを装備していた。またリアサスペンションは荷室の広さを損なわないよう、横置きトーションバーを使ったフルトレーリングアームとされ、石畳でも運転に影響する振動が少ないうえ、安定性も優れていた。その積載性は、子牛も積めたと言う。
シトロエン・2CVと同様、実用に徹したコンセプトは消費者に受け入れられ、最終的にフォルクスワーゲン・ビートル、フォードT型に次ぐ単一モデルとして史上3位の台数を記録した。
直接の後継車はルノー・6

イギリス

都市部では狭い路地が極めて多い事から、小型の物が求められたが、欧州人の長身が収まる必要性から、広い室内も重要視され、当然ながら、石畳で故障しにくいサスペンションも求められた。

ただ第一次世界大戦前までは自動車と言えば高級品かつ贅沢品であった。米国では一般向け市場でも1900年代当初のオールズモービルやその後につづくフォードが先んじていたものの、階層社会も根強いこともあってか英国では、大衆車というよりも、単に小型車というカテゴリーに属する車両である場合も少なくない。その中で労働者階級でも手の届く大衆車は連綿と作られていた。この中で育まれた設計は後に世界各地で主要部品を輸入して現地で製品を製造するノックダウン生産が行われるなど、大衆車のみならず自動車産業の初期において英国が果たした役割も大きい。こういった中で、メーカー一社に収斂されない複雑なシリーズ車の系譜も見られる。

  • オースティン(メーカー)

詳細はオースチン (自動車)を参照

第一次世界大戦後の不況期の1922年、オースチンがオースチン・セブンを販売し大成功し、これが世界の小型車、そして大衆車の最初の標準となった。ドイツではオースチン・セブンのノックダウン生産からBMWの自動車生産が始まった。フランスローザンギャールもノックダウン生産をした。日本ではダット自動車のダットソンがオースチン・セブンのコピーといわれており、オースチン社の歴史には日産もオースチン・セブンを作ったと記録されている。第二次世界大戦後の同社は最低価格帯だけをつくっていたわけではないが、A40サマーセット、A40ケンブリッジ、A50ケンブリッジなどが最低価格帯の車両として製作された。その後、英国自動車業界はオースチンだけでなく国全体として停滞し国策にもてあそばれることとなる。現在の英国では、低価格で低性能の代名詞としてオースティン・パワーズなどで使われているが、ことはそう単純ではない。
(A40サマーセットを日産自動車が日産オースチンとしてノックダウン生産したのは1952年であり、これはのちライセンス生産に切り替えられ、日本の乗用車の技術に貢献した。英国では最低価格帯であったが当時の日本ではこれが最高級品だった。A40サマーセット、A50ケンブリッジはすべて日本製の部品で置き換えられ、乗用車の国産化ともてはやされた。1952年の提携の背景には、日本で乗用車が産業として世界に対抗できるかどうかの国会での議論があり、輸入業者は反対したが、これを契機に日本政府が日本国産乗用車育成を図り、日産、日野、いすゞなどの提携となった。オースチンの技術は日産オースチンの後継となるセドリックに生かされた。)
1976年 ブリティッシュ・レイランドミニ クラブマン エステート
1976年 ブリティッシュ・レイランド
ミニ クラブマン エステート
  • ミニ (BMC ADO 15 シリーズ)

詳細はMiniを参照

1959年~2000年10月。累計生産台数530万台。
BMC(British Motor Corporation)によって開発されたADO 15と呼ばれるこのシリーズは、初期は、「オースチン・セブン」「モーリス・ミニ・マイナー」という名で発売され、1962年に「オースチン・ミニ」と「モーリス・モニ」に名を変えた。1961年にはバリエーションとしてサルーン型の「ライレー・エルフ」と「ウーズレー・ホーネット」が加わっており2種4ブランドのバッジエンジニアリングカーとなっていた。サルーンタイプは1969年で終了し、同時に「ミニ」自体がブランド名となった。
量産車としては革新的なイシゴニス式と呼ばれる、横置きエンジンと二階建てトランスミッションを採用し、ミニで採用されたFF実現のための機構は等速ジョイントはじめその後の小型車の標準となった。当時としても一際小さなボディに対して、最大限の客室容量と、優れた運動性能を実現していた。このため、「大衆車であるから」と卑下する必要のない乗用車として広い層に受け入れられた。また同車の堅牢な設計は、国際ラリーでも高く評価されてきた。
1994年にBMW傘下で生産が続けられていたが2000年に生産終了している。ミニのブランドはBMWに残り、新たに小型プレミアムカーMINI (BMW)として一新されている。

ドイツ

エリートのみでなく、一般国民が自由に、また廉価に旅行できる手段として開発された。購入方法は毎月の積立金制度を利用する。特に長距離走行でも故障を起こさない事が求められ、また燃費の良さも重要視された。国民車開発と平行して世界的にも類を見ない長距離高速道路網アウトバーンの整備が1930年代より開始された。

フォルクスワーゲンタイプ12003年まで製造が続いた
フォルクスワーゲンタイプ1
2003年まで製造が続いた
  • フォルクスワーゲン・タイプ1
    1938年~2003年(ドイツ本国では1978年に生産終了、ブラジルで生産継続されていた)。累計生産台数2100万台。
    "Volkswagen" はドイツ語で「大衆の車」の意味がある。正式な車名は製造会社名と同じ「フォルクスヴァーゲン」(日本ではヤナセがフォルクスワーゲンと商標登録した)である。英語読みは「ヴォルクスワーゲン」。英語圏では「ビートル」と愛称されている。
    その基本設計はアドルフ・ヒトラーが提唱した国民車計画に拠る。国威発揚という目的をもった同車は、大衆車という位置づけにも関わらず当時としては欲張った高性能であり、また多彩な気候下でも故障や性能低下がない、いわば万能車であったと言える。その要求性能をほぼ実現した量産車は、丸っこく愛らしいスタイルとあいまって広い人気を得た。ドイツのみならず世界各国で販売・現地生産され、累計2100万台という史上最多単一モデル生産記録を持つ。長く継承され続けた古風で独特のスタイルは幅広い愛好者層を持ち、庶民だけではなく秋篠宮文仁親王がかつて愛車としていたことでも有名で、生産開始から60年以上経った2000年代でも世界中に熱狂的な愛好者層が存在する。
    直接的な後継車とは言い難いが、1998年にはゴルフのフロアパンを利用、かつてのビートルの丸っこいイメージをまとった新型車「フォルクスワーゲン・ニュービートル」が発売された。
  • BMW 600
  • BMW 700
  • オペル・カデット
  • トラバント(旧東ドイツ
    通称「トラビ」。非常に前時代的な設計でボディーはパルプによる繊維強化プラスチックという特徴をもつ同車だが、かつては割り当て制のために、これすら購入できない大衆が多かった。しかし少なくとも大衆が購入できる乗用車は、これ以外には無かった。その設計は当時としては非常に独創的で理にかなったものであったが、長い間あまり改良されずに生産が続けられ、東西ドイツ統合により市場価値を失って姿を消した。

イタリア

狭く入り組んだ路地が多く、また第二次世界大戦の敗戦から経済的に立ち直っていなかった時代にはとにかく小型・安価な物が求められた。

  • フィアット・500フィアット
    1957年~1977年。累計生産台数400万台。
    「500」は排気量で、1936~1955年にかけて生産された同名の車があり、この車はそれに対して「フィアット・ヌオーバ(新)500」としてデビューしたが、後に単に「フィアット・500」とされ、「チンクチェント(イタリア語で「500」)と愛称された。昔のモデルは「トッポリーノ(ハツカネズミ)」の愛称で知られており、どちらもフィアット社を代表する大衆車であった。
    第二次世界大戦の後、イタリアで安価な移動手段としてスクーターやキャビンスクーターが広く普及していた。フィアット500はそれらからの乗り換えを狙って開発され、初期にはそれらを下取りする戦略を取った。そのコンセプトのため、同時期の車の中でもミニを下回る極めてコンパクトな車体であり、かつ低コストで意外とよく走るため、主に若者や低所得者層向けのシティコミューターとして、ヨーロッパ全域に受け入れられた。特に日本では、アニメ『ルパン三世』主人公の愛車(の1つ)として有名である。
    同ポジションの後継車としては「フィアット126」があり、また1991年には700/900ccの小型車「チンクチェント(「500」でなくアルファベット綴り「Cinquecento」)が発売された。いずれも現在は生産中止。

アメリカ

最も早くモータリゼーションを経験した国。未開地が多く存在していたため、悪路での走破性や修繕のしやすさが求められた。

  • フォード・モデルTフォード・モーター
    1908年~1927年。累計生産台数1500万7033台。
    アメリカのみならず世界中に大きな影響を与えた車。日本では「T型フォード」とも呼ばれる。途中で流れ作業方式を導入して大量生産が行われ、低価格化が進行していった。また、その運転方法は他の自動車とは相当に異なっていたが、当時の自動車としては運転のしやすいものであった。

イラン

寒暖の差が激しい砂漠気候の環境における耐久性が重視された。反面、産油国であるために燃費は余り重要視されなかった。

燃費は悪く8km/リットルだが、イラン国内の8割が同車だったという。イギリス・ルーツ・グループからの技術供与で生産されていた。

インド

英国車のモーリス・オックスフォードをベースに開発された。

備考

日本製大衆車の席巻に関して

日本の大衆車は米国に輸出され、1980年代には日米貿易摩擦からきたジャパンバッシングといった感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆と言うわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代の頃まで待たねば成らなかった。

日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタはクラウンとランドクルーザー、日産はダットサン・トラック220型、セダン210型、スポーツS210型を輸出している。3900ccの排気量を持つランドクルーザーは評判が良かったのだが、クラウンは当時トヨタの最高級車でありながら、高速躁安は危険とされるレベルであり、オーバーヒートや焼きつきも頻発・早々に輸出が中止されるという状況であった。

ダットサン各車は、もともと丈夫なオースチンのコピーであったためスピードが足りない以外では大きなトラブルは無かったが、貧相で小さすぎるため、売れ行きは芳しくなかった。トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと日本車の米国進出ではやや後発の部類に入り、ここから日本車の米市場への挑戦が始まったのである。

大衆車と社会

市場経済の成長期に登場したこれら大衆車は、最初の内こそ人々の生活向上心を煽り、盛んに販売・消費されるが、次第に経済的成長傾向が鈍化すると、飽和状態に陥って、消費者の関心が細分化する傾向があることから、これら画一的な大衆車への関心が薄れる傾向が見られる。

このため大衆車の勃興は、一種の経済的指標と見なす事が可能である。現在、日本や米国といった経済的にも豊かな社会にあっては、これら大衆車の多くは生産を終了しているか、一定の高級感を出すことでファミリーカーへの転換が図られている。

一方、経済的に成長過程にある国では、国内経済発展とともに、自動車利用が大衆にも広まり、これら大衆車を求める傾向が見られる。中国では現在、国内外の自動車メーカーが競って大衆車を発表、巨大市場と目される中国大衆車市場を巡って販売合戦が行われている。

脚注

  1. ^ それ以前は、4サイクルが360cc以下、2サイクルが240cc以下と定められ、2サイクルエンジンでの成立は不可能だった。当時は、同じ排気量であれば、4サイクルエンジンより2サイクルエンジンのほうがより高出力を得やすいと考えられていたことによる
  2. ^ 一般的には通産省が発表したと思われているが、通産省は発表していない
  3. ^ のちに空冷水平対向エンジン2気筒、700ccの「トヨタ・パブリカ」に結実した

関連項目

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