大量生産(mass production)とは、工業製品を流れ作業で大量に生産すること。マスプロ、量産とも言う。
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英国でマーク・イザムバード・ブルネル(en:Marc Isambard Brunel)が英国海軍用に滑車装置(en:Block and tackle)を作るためにアセンブリー・ラインを用いたのが最初といわれている。1801年のことであった。(en:Assembly line)
米国ではアルバート・ポープが1890年代にアセンブリーラインによる生産を開始している。ポープは英国で自転車製造を見学し米国初の自転車製造会社を創業しかつ米国自転車産業界を特許闘争で独占し米国自転車の帝王とよばれた人物である。
米国での自動車生産におけるアセンブリーラインの第一号は1901年、ランサム・E・オールズによりオールズモビルでなされ、オールズは特許を取得している。第二号は、トマス・B・ジェフリーが1902年にランブラーC型でおこない、フォード社が1903年に初期のA型フォードでその後に続く。フォード社は改良を重ね、1908年から開始されたT型製造において適時改良が加えられながら1914年にハイランドパーク工場内のシャーシのアセンブリーラインにベルトコンベアが導入され、この時点が、後年、組み立てに関する大量生産方式の基本形完成の年とされている。フォード副社長でこれに貢献したソレンセンは、事実が先で考え方や原理などは後からついてきたと語っている。これはトヨタのかんばん方式とも同様である。またフォード式大量生産はヘンリー・フォードが主導したものではなく、フォード社内の幹部や技術者の長年にわたる試行錯誤の結果であった。
大量生産の狙いは、
である。これにより、商品ひとつあたりの生産にかかるコストを下げることを実現した。しかしながら、大量生産を前提としたラインでは大規模投資を行って製造ラインを構築するため、固定資産などの固定費が多くかかる。そのため、生産量が少ない場合など工場の稼働率が低い場合は製造単価が跳ね上がる。大量生産の効果を出すためには一定の生産量以上を確保しないといけない。その一方で、商品を大量生産をしても売れ残り、在庫が発生するという状況があるのでこれをいかに処分するかということも問題となっている。
ただ均質性の高い商品の場合は大量生産に変わる生産方式はない。そのような商品としては素材や燃料などが上げられる。また、近年では、モジュール化によって部品の共通化が進展。部品の分野でも大量生産による低コストが依然として有効である。
最終組み立ての工程においては、カスタマイズや製品切替に合わせて屋台方式などによりモジュールの接合を一人の作業員が貫徹するやり方も普及しつつある。
大量生産は、経済成長と密接に関わっている。大航海時代以降、商品経済化が進展し生産・消費のサイクルが拡張すると、利益とシェアが強い関連を持つようになった。より少ない労力で多くの生産を行う、生産性が高い産業が、成長し利益を上げることができた。
18世紀、インド産綿織物に席巻されつつあったイギリス衣料市場においては、資本家が発明された機械を導入し国内生産で輸入代替するビジネスを始めた。
機械は、大量生産を可能にし均質な綿糸・綿布・綿織物を生み出した。低コストな生産方式は、やがてインドの比較優位性を逆転させ、イギリスを綿織物輸出国として成長させることになった(産業革命)。
やがて、大量生産はあらゆる商品に適応され、大量の生産物が消費される社会が誕生した。アメリカにおいて特に、この方式は発達し広大な国土の発展を支えた。
生産が増加するということはそれ自体が国内総生産の増大を意味するが、やがてさまざまな問題が噴出する。
フォード生産方式には以下の3点の特徴があげられる。
これらはフォード社がすべてを最初におこなったわけではなく、またすべて同時に形づくられたものでもない。フォードがおこなった主要な点としては、T型フォードという一車種に絞ったことと、ベルトコンベア方式を採用し流れ作業をさらに効率化したことが特にユニークなところであり、それ以外の点は個別にはすでに他社でおこなわれていたものだった。しかし、それら個々の生産技術をさらに極め、一車種に集中しておこなったことにより、従来に比べて格段に生産能率が上がり、製品を安価に提供できるようになったのであった。1906年にはほぼ形作られていたが、1908年からのT型生産と、その販売好調による1914年の新工場建設に際しベルトコンベアが導入されたことで、フォード生産方式が完成した。この頃、フォード社は良質の鉄を入手するために製鉄所さえも自社で所有するまでになっていた。
(これはフォード社一社だけの生産効率の向上であったが、これによってフォードは一時期、市場を寡占したため、産業界ではこれに対抗したいという意欲が生まれ、業界としての効率化をねらう「業界標準」を生むことにつながった。フォード社は部品会社も含め自動車産業の他の会社とはほとんど関わりをもたなかったため、米国の自動車産業界は、フォード社を除いて、またはフォード社と対立しながら、広く標準化、規格化を推進していった。具体的には、自動車特許でフォードと対立していたALAMでの試行にはじまり、その後、フォードの独占と不況による部品メーカー倒産により危機的状況におかれたハドソン自動車など中小の自動車メーカーが主導しSAE(「部品の標準化:フォード主義への対抗」の節)で実現した。)
製造工程が極端に単純化されたため、労働者は非人間的な労働を強いられた。この人間疎外の状況を風刺したものとして、チャップリンのモダン・タイムスが挙げられる。ただし、ヘンリー・フォード自身は(身内の反対を押し切り)フォード社での作業従事者に対して日当5ドルという当時では破格の給与を保証し、良質の労働者を確保すると同時に労働者への利益の還元を積極的におこなっていた。
また、このフォード式生産方式が日本が中国との経済競争を行ううえで少子高齢化による人口の減少、少ない国土面積などの制約条件によって極めて不利であり、逆にこの方式が日本の国力低下の原因になりつつあるのが現状である。