| 生年月日 | 1954年9月21日(53歳) |
|---|---|
| 出生地 | 出生地:東京都 本籍地:山口県大津郡油谷町(現:長門市) |
| 出身校 | 成蹊大学 南カリフォルニア大学(留学) |
| 学位・資格 | 政治学士 |
| 前職 | 会社員 衆議院議員秘書 |
| 所属委員会 内閣役職 |
衆・外務委員会委員 |
| 世襲 | 3世 祖父・安倍寛、岸信介 父・安倍晋太郎 |
| 選出選挙区 | 山口県第4区 |
| 当選回数 | 5回 |
| 所属党派 | 自由民主党(無派閥) |
| 党役職 | 山口県第4区支部長 |
| 会館部屋番号 | 衆・第一議員会館602号室 |
| ウェブサイト | あべ晋三 |
安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年9月21日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。
内閣総理大臣(第90代、2006年9月26日 – 2007年9月26日)、内閣官房長官(第72代)、自由民主党総裁(第21代)、同党幹事長を歴任。
目次 |
親族に政治家が多く、父方の祖父の安倍寛(元衆議院議員)、母方の祖父の岸信介(第56・57代内閣総理大臣)、大叔父の佐藤栄作(第61 - 63代内閣総理大臣)、父の安倍晋太郎(元外務大臣)、弟の岸信夫(参議院議員)などがいる。妻は森永製菓社長令嬢の安倍昭恵。
大学卒業後、神戸製鋼所社員、外務大臣秘書官を経て衆議院議員となる。官房副長官、自由民主党幹事長、同幹事長代理、官房長官等を歴任。2006年に自由民主党総裁、内閣総理大臣に就任。2007年9月26日に内閣総理大臣を退任。
1954年9月21日、当時毎日新聞の記者であった安倍晋太郎とその妻、洋子の次男として東京で生まれる(本籍地は山口県大津郡油谷町(現・長門市)。 父方の祖父は衆議院議員の安倍寛(この時既に故人)、母方の祖父は後の首相・岸信介で、大叔父にはやはり後の首相・佐藤栄作がいる、政治家一族であった。「幼い頃から私には身近に政治がありました」と安倍は振り返っている[1]。
岸信介が入学を推奨したという[3] 、成蹊学園(小学校・中学校・高等学校・大学法学部政治学科)を卒業。安倍は小中高と良い教師に恵まれていたと振り返る[4]。
小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間平沢勝栄(後の衆議院議員、日本人拉致問題で助言したと言われる)が家庭教師についていた[5][1]。平沢はテレビ朝日系の番組『ビートたけしのTVタックル』で、「安倍晋三さんは、私が教えてから頭悪くなったと言うんですけどね、違うんですよ。安倍晋三さんがしっかりしてるのは私が教えたからで、私が教えてなかったら今頃網走の刑務所に入ってたかも知れないよ。」と語っている[6]。低学年の時、父晋太郎が選挙(1963年)に落選したとき、「仕事がなくなっちゃったんだ。でも、知り合いの会社の顧問になれるから大丈夫なんだ」 と語っていたという[7]。晋太郎の落選当時、両親と離れて暮らしており、平沢勝栄を遊び相手にしたりしていた[1]。この当時、友人によればあまり目立たなかったという[7]。また平沢によれば、「はやっていた『おそ松くん』の『シェー』のポーズを良くまねする普通の子ども」だったという[1]。
高校でクラブは地理研究部に所属[8]。同級生によれば存在感の薄さが逆に印象に残っていたという[3]。ちなみに池田大作の次男と同期生だった[9]。
父の安倍晋太郎、祖父の安倍寛・岸信介、大叔父の佐藤栄作、家庭教師の平沢勝栄と親類・周囲には東京大学出身者が多かったが本人は無難にエスカレーター式に成蹊大学に進み行政学を学ぶ。安倍を痛烈に非難している衆議院議員田中真紀子は、平沢勝栄が「頭が悪くて勉強が嫌いで口が軽くて。コネでもなんかすれば慶大くらい入れるだろうと思ったら、それもダメだった」と話していたとしている[10]。アーチェリー部に所属し、準レギュラーだった[11]。成蹊大時代はアルファ・ロメオに乗ってキャンパスに通う[12]。大学生の頃は人付き合いがいいが、大人しく真面目だったという[8]。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、その後イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った[13]。秋に南カリフォルニア大学への入学許可が出され[14]1978年に入学、政治学を専攻し春・夏・秋学期を履修し、1979年に中退した[15]。
1979年4月に帰国し、神戸製鋼に入社した。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した[1]。加古川製鉄所での経験は、「私の社会人としての原点[16]」、あるいは「私の原点[17]」だったという。
神戸製鋼での3年間勤務の後、1982年、父で時の外務大臣・晋太郎の秘書官等に就任し、数々の各国首脳との会談に同席するなど父の後継者としての政治家修行を行う。1987年に松崎昭雄・森永製菓社長の娘で電通社員の昭恵と結婚する。その際の媒酌人を務めたのが、福田赳夫元総理だった。1991年に首相候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。
1993年に死亡した父の地盤を引き継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区(当時)より出馬し、初当選。父が派閥会長を務めていた清和会(三塚派、後の森派→町村派)に属す。
派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年の第2次森改造内閣で、後に次期首相となる小泉純一郎に推薦され[18]、内閣官房副長官に就任。森政権の後を受け、2001年に成立した小泉純一郎首相の第1次小泉内閣でも引き続き内閣官房副長官を務める。
2002年の小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁・武力行使を含めた強硬路線を主張した。拉致被害者の北朝鮮帰国方針にも中山恭子内閣府参与と共に頑強に反対した[18]。対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の毅然とした姿勢は珍しく注目を集めることになった。
2003年9月、小泉首相によって自民党幹事長に抜擢された。当選3回で、大臣経験もない若手議員が党幹事長に就任するのは前代未聞のことであるが、苦戦が予想される同年11月の総選挙のために安倍の「人気」が必要とされたためと見られた。11月の総選挙で自民党は絶対安定多数の確保に成功した。
幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」、「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年の参議院選挙では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞職を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・武部勤の強い要請を受け党幹事長代理に就任。幹事長経験者が幹事長代理に格下げになるということも大変異例なことだった。その幹事長代理として迎えた05年衆院選では保守派弁護士の稲田朋美を「刺客」(「抵抗勢力」に対する対抗馬、福井1区の松宮勲への対抗馬)にスカウトした。
小泉政権末期の早い段階から自民党内の「ポスト小泉」の最有力候補の一人と言われ、2005年10月31日付で発足した第3次小泉改造内閣では内閣官房長官を務める。
2006年9月1日に自民党総裁戦への出馬を表明。憲法改正や教育改革、財政健全化に取り組む方針を示す。また、総裁選に当選し次第、所属する派閥の森派を離脱する考えを示した。
小泉純一郎の総裁任期が満了となり、2006年9月20日、自由民主党総裁選挙で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出、9月26日の臨時国会に於いて内閣総理大臣に指名される。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての総理大臣であった。
安倍内閣、 安倍改造内閣、 2006年の政治、および 2007年の政治も参照
就任表明では「美しい国」というテーマのもとに「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」などといったカタカナ語を連発し、議員からは「わかりにくい」と揶揄された。 安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明。10月8日に中国・北京で胡錦濤国家主席と会談。翌9日に盧武鉉大統領と会談すべく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷え切った日中・日韓関係を改善した。 その日、北朝鮮が核実験を実施して世界を驚かせた。この北朝鮮の核実験に対して、安倍首相は「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」として非難声明を発するとともに、国連の制裁決議とは別に、より厳しい経済制裁措置を実施した。9月~11月にかけての郵政造反組復党問題では安倍は非難を受けた。12月に懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を強行する。同月、本間税制会長が公務員宿舎の愛人問題で、佐田行革相が架空事務所費計上問題で辞任した。
2007年に始まった第166回通常国会では数多くの重要法案を強行採決で次々に成立させた。
5月初旬には米国を初訪問し、小泉政権に引き続いて日米関係が強固なものであることをアピールした。同月、以前から様々な疑惑のあった松岡農水大臣が自殺。また年金記録問題が大きく浮上してくる。安倍は問題発覚後も国会で「救済」という言葉をしばらく使い続けるなどしていた。こうした中で、6月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低になったということがメディアに大きく報じられた。同月6日~8日には首相就任後初のサミットであるハイリゲンダム・サミットに参加、地球温暖化への対策を諸外国に示した。7月3日に久間防衛相の原爆投下をめぐる発言が問題化。当初は問題なしとしていたが、批判の高まりにより、久間に厳重注意を行なった(翌日になり、久間が辞任する)。同月5日第166回国会閉会。
第21回参議院議員通常選挙への与野党の戦いが始まって早々、自殺した松岡の後任である赤城農水大臣もいくつかの事務所費問題が発覚する。安倍はこういった閣僚の不祥事に対しかばうことが多く、処分が甘く、遅いと非難された。選挙中に発生した新潟県中越沖地震では発生当日に遊説を打ち切り現地入りした。2007年の参議院選挙では「年金問題」の早期解決を約束し、「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えたが、結果は連立を組む公明党との議席を合わせても過半数を大きく下回る歴史的大敗を喫した。
選挙結果の大勢が判明した時点で総理続投を表明。これについては、応援演説において「私か小沢さんか、どちらが首相にふさわしいか」と有権者に「政権選択」を迫るような趣旨の発言をしていたことから内外から続投に対する厳しい批判が出た。また、同年7月31日の自民党総務会においても、「決断されたほうがいい」などと党内からも退陣を促す発言が噴出した[19]。赤城農相を8月1日に更迭したが、「遅すぎる」と批判された。選挙結果や批判を受け、8月27日に内閣改造、党役員人事に着手した(安倍改造内閣)。
ところが組閣直後から再び閣僚の不祥事が続発し、求心力を失う。9月9日、オーストラリア・シドニーで開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議の終了にあたって開かれた記者会見において、テロ特措法の延長問題に関し9月10日からの臨時国会で自衛隊へ給油が継続が出来なくなった場合は、内閣総辞職することを公約した。
2007年9月10日に第168回臨時国会が開催され、安倍首相は所信表明演説を行った。その中で安倍首相は「職責を全うする」などという趣旨の決意を表明した。なお、この表明では自身の内閣を「政策実行内閣」と名づけ、「美しい国」という言葉は結びに一度使ったのみであった。午後には「(改正案を通すのは)厳しいでしょうか」と辞任を示唆する発言を麻生幹事長に漏らしていたが、麻生は「このタイミングで辞めるのはいかがなものか」と慰留していた。
2007年9月12日午後2時(JST)、「内閣総理大臣及び自由民主党総裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を行った。これにより同日予定されていた衆議院本会議の代表質問は中止となった。
辞任の理由として本人は緊急記者会見で「テロ特措法の再延長について議論するため民主党の小沢代表との党首会談を打診したが、事実上断られ、このまま自身が首相を続けるより新たな首相のもとで進めた方が良い局面になると判断した」「私が総理であることが障害になっている」などとした(しかし小沢代表は記者会見を開き「打診を受けたことは1回もない」と否定。なお、小沢代表は党首会談について報じられてからも「意見を変える気はない」ときっぱりと明言しており、これに対し「事実上断られた」と判断した可能性が考えられる)。一方で、自身の健康に不安があるという理由も与謝野馨内閣官房長官が同日中会見で述べている。24日の記者会見で、本人も健康問題も辞任の理由の一つであることを認めた。
もともと胃腸に持病を抱えているといわれており[20]、辞意表明当日の読売新聞・特別号外でもそのことについて触れられていた。また、辞意表明前日には記者団から体調不良について聞かれ、風邪をひいた旨を返答しており[21]、この時点で疲労による体調不良が顕著になっていたとも言える。
それでも臨時国会が開幕し内政・外交共に重要課題が山積している中で、かつ所信表明演説を行って僅か2日後での退陣表明は、まるで「内閣を放り出す、投げやりの辞任」であり如何なる理由があるにせよ極めて無責任であり、古賀誠元自民党幹事長など各界各方面から退陣に至る経緯・理由が不透明であるとする意見が多い。「参院選の後に辞めていればよかった。こういう形の辞任は国民に失礼」(民主党・鳩山由紀夫幹事長)、「所信表明直後の辞任は前代未聞」(共産党・志位和夫委員長)、「『ぼくちゃんの投げ出し内閣』だ。小沢代表との会談が断られただけで辞任するのは子供っぽい理由」(社民党・福島瑞穂党首)などの意見がある[22]。9月13日に朝日新聞社が行なった緊急世論調査では、70%の国民が「所信表明すぐ後の辞任は無責任」と回答している[23]。
なお、麻生太郎自民党幹事長は同日の会見において、記者からの「総理はいつ辞任を決断していたのか」との問いに対し、「2日くらい前といえばそうだし、昨日と言えばそうだし…」などと述べ、麻生幹事長は安倍が近く辞めることを2日前(安倍晋三が臨時国会でテロ特措法の延長ができなければ内閣総辞職すると述べた日と同日)にはすでに知っていたことを明らかにした。
日本国外のメディアもトップニュースで「日本の安倍首相がサプライズ辞職」、「プレッシャーに耐えきれなかった」(アメリカCNN)などと報じた。欧米諸国の報道では批判的な意見も多かったが[24]、安倍内閣の下で関係が良好だった中国、韓国、台湾のマスコミは同情的な意見が目立った。
退陣表明の明くる13日、慶應義塾大学病院に入院し、検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発表した。これについても海外メディアで報道され、イギリスBBCは「昨日官邸をチェックアウトした安倍首相は、今日は病院にチェックインした」、「日本は1週間以上も、精神的に衰弱しきった総理大臣を抱えることになる」と報じた。
日刊ゲンダイによれば遠藤武彦農相に不正な補助金疑惑が発覚した際、遠藤の辞任の流れを与謝野馨内閣官房長官と麻生幹事長の2人だけで決めて安倍を排除したことから、安倍が「麻生さんに騙された」と発言したと言われる[25]。 この内容について9月14日の報道ステーションが麻生にインタビューで問い質したところ、麻生は「(9月14日に安倍氏の見舞いに行った時)『そんなこと言われて与謝野とふたりで困っている』と安倍総理に言ったら、『そんなこと言ってない』と笑っておられました。どなたかが意図的に流したデマでしょう」と反論をしている。同日のNEWS ZEROは、番組終盤に安倍の「麻生さんに騙された」という発言を速報という形で伝え、麻生と安倍との間に不穏な空気が流れていたとする報道を行った。
また、自民党の若手による「麻生-与謝野クーデター説」について与謝野官房長官は、9月18日の閣議後の会見において明確に否定した。さらに麻生幹事長は9月19日に「事前に安倍首相の辞意を知っていたのは自分だけではない」とし、与謝野官房長官も同日「中川(秀直)さんは11日(辞任表明の前日)に安倍さんに会っていて、知っていてもおかしくない」と、中川前幹事長も事前に安倍の辞意を知っていたことを示唆した[26][27]。
安倍内閣メールマガジンは9月20日配信分において「国家・国民のためには、今身を引くことが最善と判断した」とのメッセージのもと、これをもって最終号を迎えた[28]。
なお、病院側は、安倍首相の容体は回復軌道には入っているものの退院できる状態ではないとした。9月21日は安倍首相53歳の誕生日だが、病院で誕生日を迎えることになった[29]。このように安倍首相は退陣まで公務復帰できなかった状況だが、与謝野官房長官は「首相の判断力に支障はない」と内閣総理大臣臨時代理は置く予定はないという方針をとっていた[30]。20日の官房長官会見では「首相は辞任と病気の関係を説明するべき」としていた[31]。
9月23日に行われた自民党総裁選には欠席して前日に不在者投票を行い、前総裁のあいさつは谷川秀善両院議員総会長が代読した。
9月24日17時、慶應義塾大学病院にて記者会見を行い、自身の健康状態及び退陣に至る経緯について「意志を貫くための基礎体力に限界を感じた」と釈明し、政府・与党、国会関係者並びに日本国民に対して「所信表明演説後の辞意表明という最悪のタイミングで国会を停滞させ、多大な迷惑を掛けたことを深くお詫び申し上げたい」と現在の心境を開陳、謝罪した。また、自民党若手による「麻生クーデター説」については本人の口から改めて否定された[32]。さらに、首相としての公務に支障があったにも関わらず臨時代理を置かなかったことについては「法律にのっとって判断した」としたが、これについては政府内でも批判の声があった[33]。
9月25日の安倍内閣最後の閣議に出席し、国会へ登院して衆議院本会議での首班指名選挙に出席する意思を明らかにした。9月25日の安倍内閣最後の閣議で閣僚全員の辞職願を取り纏めて内閣総辞職した。安倍前首相は最後の閣議の席上、全閣僚に対して一連の事態に対する謝罪及び閣僚在任に対する謝意を述べた。26日には皇居で行われた福田康夫首相の親任式に出席した後、再び病院へと戻った。なお、安倍内閣の在職日数は一年あまりとなる366日であり、日本国憲法下では歴代7位の短期政権となった。改造内閣はわずか31日の短命に終わった。
その後、入院していた慶応大学病院を離れ、東京・富ケ谷にある私邸での自宅療養に入っている。あくまでも「一時帰宅」であるが、症状が順調に回復すれば、そのまま退院できるということである[34]。年内は自宅療養を続けるという[35]。
11月13日に新テロ特措法案の採決を行なう衆議院本会議には「はってでも出たい」と出席し、白票を投じた。安倍前首相が国会に登院するのは、9月25日の首班指名選挙以来のこと。後の記者会見において安倍前首相は「回復しました」と辞任会見時とは打って変わった元気な様子を見せた。
| この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。 このタグは2007年7月に貼付されました。 |
美しい国も参照
総裁戦直前の2006年7月19日に自らの政治信条を綴った自書『美しい国へ』を出版し、10刷・51万部以上を発行する[36]ベストセラーになった。政権スローガンも「美しい国日本を作る」とし、自身の政権を「美しい国づくり内閣」と命名した。自身の政権の立場を“「戦後レジーム(体制)」からの新たな船出”と位置づけている。現行憲法を頂点とした行政システムや教育、経済、安全保障などの枠組みが時代の変化についていけなくなったとし、それらを大胆に見直すとしている。
現行憲法をアメリカからの“押し付け憲法”とし、これまでの日本の歴史認識を自虐的な東京裁判史観とする保守層からは好意的に迎えられる一方、左派からは内閣発足当初から集団的自衛権を容認しアメリカに追従する軍国主義的な体制を作ろうとするものではないかという懸念が示されている[37]。また「美しい国」という理念について、何が・また何を以って“美しい”とするのかはっきりせず、抽象的であるとする批評もある[38]。
総裁選では施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会で、「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっているので、21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べた[39]。また“私は、国会議員になった当初から改憲論者だが、3つの点で憲法を改正すべきだと主張してきた。第一の理由だが、現行憲法は占領軍の手によって、憲法の専門家ではない人たちによって2週間そこそこで書き上げられた、と言われており、やはり国の基本法である限り、制定過程にもこだわらざるを得ない”と述べた[40]。
改憲のための国民投票法案(日本国憲法の改正手続に関する法律)の整備をおこなうが、選挙に向けて野党の反対を押し切り成立させたためメディアでは法案の不備について批判が出た。
米国により要請された日本版「国家安全保障会議」(NSC)構想の推進した。総理就任以前は憲法改正に関しては集団的自衛権の容認を打ち出して来た。総理就任後は、防衛庁を防衛省へ格上げした。これは「戦後レジーム(体制)から脱却し、新たな国造りを行うための第一歩」と意義付けられた。
2006年11月14日、安倍内閣は閣議で、核保有についての鈴木宗男の質問主意書[41]に対して、「政府としては、非核三原則の見直しを議論することは考えていない」と強調しながらも、「核兵器であっても、自衛のための必要最小限度にとどまれば、保有は必ずしも憲法の禁止するところではない」との答弁書[42]を出した。
教育基本法を改正し、教育の目標の一つとして愛国心という言葉を盛り込んだ他、義務教育9年の規定や男女共学の項を削除、国家による教育統制の色合いを強めた。内閣府直属の「教育再生会議」を立ち上げた。その他、学校週五日制の見直しや大学進学の条件として社会奉仕活動の義務化を提唱した[43]。その他の政策としては、教育バウチャー制度の導入を検討、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」の座長を務め、自民党の山谷えり子らと共にジェンダーフリー教育に対する批判等を行った[44]。 今回の教育基本法の改正について“一条から改正条項を入れて十一条までの今までの法案はわりと簡素なものだ。読むと、個人の権利等々から、いきなり人類普遍の価値という原理まで飛んでおり、一見、大変立派なことが書いてあるが、そこには家族や、郷土、歴史、伝統、文化そして国など、(私たちが)大切にしなければいけないものがすっぽりと抜け落ちている。 「日本人として生まれたことに誇りを持つ」ためには、そうしたことをしっかりと子どもたちに教えていくことが大切ではないか。 また、「世界から尊敬されている」ということも、誇りが持てるということにとって、とても大切だ。世界に貢献していく際に「日本はこういう理想を持っており、こういう世界を実現していきたい」と、しっかりと述べていく必要がある。”と述べている[45]
下記の歴史認識も参照
日中・日韓関係を改善し、東アジア共同体の構想に強い意欲を示す。新自由主義政策・グローバル資本主義を推進した。
詳細は日豪関係、安全保障協力に関する日豪共同宣言をそれぞれ参照
総裁選を目前に控えた2006年9月7日、戦前・戦中の「植民地支配と侵略」に対しての国家としての反省と謝罪を示した1995年の「村山首相談話」について、「基本的にその精神を引き継いでいく」と踏襲する意向を明らかにした。その一方で、2006年10月6日、衆議院予算委員会で、A級戦犯について、「戦争犯罪人である」と明言した小泉前総理の答弁を修正し、「国内法的には犯罪者ではない」との見解を示し、戦争責任については「当時の指導者であった人たちについてはより重たい責任があるが、その責任の主体がどこにあるかということについては、政府としてそれを判断する立場にはない」旨を述べた[59]。2006年10月5日、衆院予算委員会で、東条内閣の商工大臣だった岸信介が太平洋戦争開戦の詔書に署名したことへの認識を問われ「指導者には祖父を含め大きな責任があった。政治は結果責任だから当然、判断は間違っていた」とも述べている[60]。
日本のこれまでの歴史教育に異議を唱え、「新しい歴史教科書をつくる会」を支援して来た自民党内部の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(1997年2月27日結成)の元事務局長。現在中川昭一と共に顧問を務める。同会は特に侵略戦争や「慰安婦」問題の教科書記述に批判的であり、証拠もないまま旧日本軍による慰安婦の強制連行を認めた「河野談話」を発表した河野洋平を会に呼んで、談話の撤回を要求したこともある。1997年の国会でも、慰安婦の強制連行の根拠とされて来た吉田清治の証言のウソが明らかになっているのに、「河野談話」が生きていることや教科書に慰安婦の記述を載せることは問題であると指摘している[61]。自民党幹事長代理時代の2005年3月27日の講演会でも、「従軍慰安婦は作られた話」と語っている[62]。総理就任後の2006年10月5日には、これまでの主張を封印し、「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府としては引き継いでいくことを明言した。しかし、2007年3月1日、河野談話に関する記者の質問に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語ったことが国内外から波紋を呼んだ。米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案について、同年3月5日の参院予算委員会において「決議案は客観的事実に基づいていない。」「決議があっても謝罪することはない」との見解を述べた。
社民党の辻元清美の慰安婦問題に関する質問主意書[63]に対して、政府は2007年3月16日の閣議で、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書[64]を出した。その後、日本軍・憲兵等による元従軍慰安婦に対する強制性を示す数々の証言証拠を内外の研究者から示され[要出典]、 2007年4月27日、海外メディアのインタビューに答えて、「極めて痛ましい状況に慰安婦の方々が強制的に置かれたことについて大変申し訳なく思う」(I feel deeply sorry that they were forced to be placed in such extremely painful situations.) 「私たちは、戦時下の環境において、従軍慰安婦として苦難や苦痛を受けることを強制された方々に責任を感じている」(We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time.)とお詫びを表明した[65]。
歴史認識を巡って反日騒動が起こった中国と韓国の態度を批判し、外国が靖国神社参拝について抗議するのは内政干渉だという見解を持っている[66]。官房長官時代の2006年8月4日の記者会見で、同年4月15日朝に、密かに靖国神社を参拝していた(「内閣官房長官 安倍晋三」と記帳し、ポケットマネーで玉ぐし料を収めた)ことについて質問された際には「参拝したかしないかについては申し上げるつもりはない」と述べた[67]。
首相就任後も参拝を続ける意向を示しており、2007年1月17日の自民党大会で決定された運動方針でも「靖国参拝を受け継ぐ」ことが明記されたが、外交問題や政治問題になるのを避けるため自身の参拝については明言しない考えを改めて示した(靖国神社問題を参照)。2007年の終戦記念日は、7月の参院選の結果などで首相への批判が集まったことなどから[要出典]、参拝しなかった。
安晋会も参照
『朝日新聞』(2005年1月12日付)は、『安倍と中川が、旧日本軍の「従軍慰安婦」問題や昭和天皇の戦争責任などを裁く「VAWW-NETジャパン」主催の模擬法廷「女性国際戦犯法廷」を取り上げたNHKの番組の放映前に、NHK幹部を議員会館に呼びつけ圧力を掛けて番組内容を改変させた』と報じた。安倍は「関係者から偏った内容であることを知らされ、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」「自分が呼びつけたのではなく、NHKが予算の説明に来た中で、番組の説明があった際に、公平・公正な報道を要望しただけで、改変や中止を求めたことはない。」などの反論を行なった。結果的に番組内容は大幅に改変されたが、NHKは「編集は安倍氏との面会以前から行なっており、自主的な判断に基づいての編集である」と説明。安倍は17日付で通知書を朝日新聞本社に送り、事実と相違する記事に関して、謝罪と釈明、訂正記事の掲載を求めた。2005年1月19日のテレビ朝日系『サンデープロジェクト』では「NHKから『非常にバランスのとれた番組になっている』という説明を聞き、『じゃあ公平公正にお願いします』と(言った)」と語った。当時のNHK放送総局長は「政治介入があったとは、まったく感じていない」と会見で述べたが、ジャーナリストの魚住昭は流出した『朝日新聞』の記者の取材メモを基に『月刊現代』9月号で圧力はあったと結論づけ、安倍を批判。これに対し安倍は「重要な発言がカットされ、都合のいい部分だけを抜き出している」と反論しつつ、「資料の信憑性も含めて決定的証拠とはいえない。ただ、私の承諾を得ずに取材が録音された可能性は高まった」と一部記事の具体性は認めた。この件で『朝日新聞』は内部取材情報の流出を謝罪した。なお、この問題は取材を受けた市民団体が主催者側の意図に反する内容に改変されたとして、NHK側に慰謝料を求める訴訟を起こしている(訴えは番組内容の改変そのものに対するものであり、提訴は朝日新聞の報道より遙かに前の2001年である)。この裁判に於いて東京高裁は2007年1月29日に「(安倍氏ら)相手方の発言を必要以上に重く受け止め、当たり障りのない番組にすることを考え、改変が行われた」との判断を示し、NHK側が敗訴した。政治家の圧力という点に関しては「政治家が一般論として述べた以上に本件番組に関して具体的な話や示唆をしたことまでは、認めるに足りる証拠はない」と判断された。この判決に関し、安倍は「政治家が介入していないことが、極めて明確になった」とコメント。一方NHKは『番組編集の自由を極度に制約するもの』とコメント、判決を不服として上告している[86]。詳細については、女性国際戦犯法廷の当該項を参照のこと。
週刊現代は2007年9月29日号(9月15日発売)において、安倍が相続税を脱税していたとの記事を掲載した。
週刊現代は安倍の辞意表明当日に、以前から脱税疑惑についての取材を安倍に申し入れていたことを明らかにした[87]。一方で安倍の事務所は「事実無根である」と反論し、週刊現代を発行する講談社に対して、該当記事を掲載しないよう「警告文書」を送った。事務所の関係者によると、父である晋太郎が個人資産を政治団体に寄付し、相続税の支払いを免れたのではないか、との質問が週刊現代からあったという。同事務所は、「収支報告書には、あくまでも第三者からの寄付を晋太郎氏名義で記載しているにすぎない」として、全面的に否定している。 また、本件は脱税であろうがなかろうが刑事事件としては既に時効が成立しているが、週刊現代は財務省相続税担当官の話として「これが事実なら明らかに脱税」、「自主的に納めていただきたい」などを掲載した。
(元首相) 吉田茂━━桜子 ┃ 吉田祥朔 ┃ ┃ ┃ ┣━━━吉田寛 ┃ ┏さわ ┃ ┣佐藤寛 佐藤信寛━━佐藤信彦━┫ ┣佐藤松介 ┃ ┗茂世 ┏━佐藤市郎 ┃ ┃ ┣━━╋━岸信介━━━┳岸信和 ┃ ┃(元首相) ┃ ┏岸秀助┗━佐藤 作 ┗洋子 ┃ (元首相) ┃ 岸要蔵━┫ ┃ ┏安倍寛信 ┃ ┃ ┃ ┗岸信政━良子 ┃ ┃ ┣━━╋安倍晋三 大島義昌━秀子 ┃ ┃(元首相) ┃ ┃ ┃ 本 恒次郎━静子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗岸信夫 ┣━━━━安倍晋太郎 ┃ 安倍慎太郎……安倍彪助━安倍寛
| 第89代 小泉純一郎 |
第90代 2006年 - 2007年 |
第91代 福田康夫 |
|||
| 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 |
|||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|---|---|
| 内閣書記官長 | 田中光顕 - 小牧昌業 - 周布公平 - 平山成信 - 伊東巳代治 - 高橋健三 - 平山成信 - 鮫島武之助 - 武富時敏 - 安廣伴一郎 - 鮫島武之助 - 柴田家門 - 石渡敏一 - 南弘 - 柴田家門 - 南弘 - 江木翼 - 山之内一 - 江木翼 - 兒玉秀雄 - 高橋光威 -三土忠造 - 宮田光雄 - 樺山資英 - 小橋一太 - 江木翼 - 塚本清治 - 鳩山一郎 - 鈴木富士彌 - 川崎卓吉 - 森恪 - 柴田善三郎 - 堀切善次郎 - 河田烈 - 吉田茂 - 白根竹介 - 藤沼庄平 - 大橋八郎 - 風見章 - 田邊治通 - 太田耕造 - 遠藤柳作 - 石渡荘太郎 - 富田健治 - 星野直樹 - 三浦一雄 - 田中武雄 - 廣瀬忠久 - 石渡荘太郎 - 迫水久常 - 緒方竹虎 - 次田大三郎 - 楢橋渡 - 林譲治 |
| 内閣官房長官 | 林譲治 - 西尾末広 - 苫米地義三 - 佐藤栄作 - 増田甲子七 - 岡崎勝男 - 保利茂 - 緒方竹虎 - 福永健司 - 根本龍太郎 - 石田博英 - 愛知揆一 - 赤城宗徳 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 黒金泰美 - 鈴木善幸 - 橋本登美三郎 - 愛知揆一 - 福永健司 - 木村俊夫 - 保利茂 - 竹下登 - 井出一太郎 - 二階堂進 - 園田直 - 安倍晋太郎 - 田中六助 - 伊東正義 - 宮澤喜一 - 後藤田正晴 - 藤波孝生 - 後藤田正晴 - 小渕恵三 - 塩川正十郎 - 山下徳夫 - 森山眞弓 - 坂本三十次 - 加藤紘一 - 河野洋平 - 武村正義 - 熊谷弘 - 五十嵐広三 - 野坂浩賢 - 梶山静六 - 村岡兼造 - 野中広務 - 青木幹雄 - 中川秀直 - 福田康夫 - 細田博之 - 安倍晋三 - 塩崎恭久 - 与謝野馨 - 町村信孝 |