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山本昌

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月21日 (水) 13:48。)
山本昌
愛称 マサ
国籍 日本
出身地 神奈川県茅ヶ崎市
誕生日 1965年8月11日(42歳)
身長
体重
186 cm
87 kg
守備位置 投手
投球打席 左投左打
背番号 34
経歴 日大藤沢高-中日ドラゴンズ
テンプレート

山本昌やまもとまさ、「山本」と「昌」の間は区切らない。1965年8月11日 - )は、プロ野球選手投手)。中日ドラゴンズ所属。背番号は34。本名は山本 昌広(やまもと まさひろ)。神奈川県茅ヶ崎市出身(東京都大田区南六郷で出生)。1984年に中日に入団。入団後2シーズンは一軍登板がなかったが、1988年に頭角を現し、以降ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎた現在も円熟のピッチングで中日投手陣の一角を任っている。

プロ野球での登録名を「山本昌」にしている理由は、#登録名の事情を参照。

目次

人物

  • セ・リーグを代表する左腕の1人で、グラブを突き上げ、背を一杯に伸ばしてから投げる独特の躍動感溢れる投球フォームは非常に美しく、シルエットで見ても判るほど印象に残りやすい。ストレートの最速は138-139km/h前後(30代前半までは132-133km/h前後で2006年には140km/hという球速も記録している)で、同い年の星野伸之香田勲男小宮山悟と共に「非常に球の遅い一流投手」という稀有な存在である。テレビ番組「BS-i 超・人」にて山本昌のストレートの回転数を計測した結果、1秒間に52回転していることがわかった。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂大輔が41回転、驚異的な伸びのストレートを武器にする藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは驚異的な数字であることがわかる。2004年の日本シリーズで対戦した西武の選手が「山本昌のストレートはもっとも速く見えた」と言うように、高回転で伸びのあるストレート、キレのあるスクリューボールスライダースローカーブ、速度に差をつけた投球術、さらにリリース直前までボールの出所がわからないような投球フォームとリリースポイントを打者よりにすることにより実際の球速よりも速く感じる速球を武器にしている。ストレートが遅いことから技巧派のイメージが強いが、テレビ番組超・人にて山本昌は「自分は速球派だと思っている」と語っている。同番組内で調べたデータによると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、速球派のイメージが強い松坂大輔の46%と比べても速球中心で組み立てていることがわかる(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳はストレートが8%)。このことが長く現役を続ける一つの要因にもなっている。前述の通り、年齢を重ねるごとに球威が衰えるどころか、更に増す傾向にある。
  • 対巨人戦では現役投手中最多の勝ち星を挙げており、新聞等では「巨人キラー」と呼ばれている。また阪神戦にも強く「虎キラー」とも称される。メディアからは巨人戦や阪神戦での強さばかりが取り上げられているが、実際は巨人・阪神戦以上にヤクルト戦や広島戦に強く、この2チームに対しては通算防御率、通算勝利数ともに巨人・阪神戦より良い数字を残している(実際広島キラーやヤクルトキラーと呼ばれたこともある)。しかし、本人は長年の結果だとして気にしていない様子。対して一番相性の悪いのは残る横浜であり、このカードは通算防御率、通算勝利数(こちらに関して言えば勝ち越してはいる)のいずれも対セ・リーグ5球団の中ではワースト。原因としては歴代打者に左投手を得意とする右打者が多かったことが挙げられる(波留敏夫ロバート・ローズ進藤達哉中根仁など)。
  • 昭和生まれの中日一筋の選手の中では一番の生涯勝ち数をマークしている。名球会入会の条件である通算200勝を達成すれば、中日に在籍経験のある投手では史上初の名球会入会有資格投手となる(中日の通算最多211勝杉下茂1925年大正14年生まれで名球会入会資格なし。ちなみに杉下は現役晩年を大毎オリオンズで1年過ごし4勝を挙げ合計215勝)。
  • 日本シリーズでは、過去に4度(1988年1999年2004年2006年)出場しているが勝ち星はなしで、通算成績も0勝4敗と苦手にしている。そのため一部のファンからは「逆シリーズ男」と呼ばれている。日本一経験も一度もないのだが、そのこと以上に彼が悔いているのは、彼がプロ入りした1984年~2006年までにセ・リーグ6球団で一度も日本一になっていないのは中日だけだったということ。そのため、日本一への執着は同僚の立浪和義以上に強いらしく、「もし、日本一と(達成間近の)200勝のどちらか一つを選びなさいと神様に言われたら間違いなく日本一を選ぶ。日本一になれるのなら200勝達成の夢は捨ててもいい」と公言している。
  • 息の長い投手というだけでなく、1993年(17勝5敗)、1994年(19勝8敗)、1997年(18勝7敗)と3度の最多勝投手に輝き、また1994年には沢村賞受賞、2006年にはノーヒットノーランを達成するなど、名実ともに昭和末期から平成期を代表する大投手である。特に1993年の最多勝は、チームメイトの今中慎二横浜ベイスターズ野村弘樹と分け合っての受賞であったが、山本昌は8月31日に首位ヤクルトに1ゲーム差に迫る15勝目を挙げた直後、鎖骨骨折で1か月間チームを離脱している。この離脱がなかったら、山本昌自身の20勝、更にはドラゴンズは優勝していたのではないかといわれる。実際、この年ヤクルトとのマッチレースを展開したドラゴンズは、山本離脱後は今中が獅子奮迅の活躍を見せるも(その結果、今中が沢村賞を受賞)、最後はヤクルトに振り切られた。
  • ポスト落合博満監督としては立浪が本命と言われているが、何かと取りざたされる立浪に比べ、若手選手からの信望も厚い山本昌が最近では本命になりつつあると言われている。同年の古田敦也がヤクルトで選手兼任監督になっているが、まだまだ先発投手として活躍し続ける力があり、その時期が来るのはまだ先のことと思われる。しかし40歳になってからは家族と共に東京に引っ越しており、現在名古屋には単身赴任という形で暮らしているため、これを引退後の準備と見る者も少なくない。また、テレビでも「僕はもうそんなに先が長くない」など引退を匂わせるような発言や先発ローテに入らなければ辞めるという発言などを多くしている。
  • 引退の時期は全力で投げて133km/hが出なくなった時と既に決めている。
  • 1965年度生まれのプロ野球選手たちと「昭和40年会」を組織している。また西本聖(元巨人→中日→オリックス)を師として仰いでおり、若手時代に西本が中日に移籍してきた当時、行動をともにしていた。
  • 経験の長さを活かし、後輩の投手にはよく失敗談を語っているらしい。「救われた気分になるし参考になる」と絶賛する久本祐一など信望者も数多い。
  • 2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でノーヒットノーランを達成し、許したランナーは4回の森野将彦失策による1人のみだった。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言し、後輩を気遣う山本昌の優しさを見せている。これは、エラーしないと俊足の赤星だったため内野安打になった可能性もあるためこの発言をしたともされる。
  • 古田敦也は、テレビ番組でコントロールの良い投手として、山本昌の名を上原浩治とともに挙げている。
  • また大柄な体格であることから、ディズニーランドジャンボ鶴田と間違えられサインを求められたエピソードを、テレビ番組で古田敦也から暴露されている。
  • 食事の量がかなり多いという話がよく出る。2004年に優勝した際、優勝を記念してインタビューを受けた際、オールスターゲームが開催された日に、出場していない選手で焼肉を食べに行った際に、前の席が落合監督で肉を焼いてもらい、監督の分の肉まで食べてしまったというエピソードを本人が話した。インタビュアーのアナウンサーからは「三冠王3回取った監督の肉全部食べたんですか!?」と言われた。

趣味

  • 無類のラジコン好きである。セミプロのラジコンレーサー。その操縦技術やチューンアップの知識は趣味の域を超えて全国レベルと言われ、山崎武司とともに山々杯というラジコンの冠イベントを開催しているほど。これには山崎のほか愛弟子の野口茂樹などプロ野球選手も多数参加している。しかし、2006年のオフシーズンは「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と山々杯を中止にした(しかしこれはウソであり、オフの調整をするためだったかららしい。 Sports Graphic Number内で)。ラジコンを始めたきっかけは1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、ヒマつぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した。
  • カブトムシ集めも彼の趣味で、世界のカブトムシを集めて彼の息子と一緒に飼っている。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシやクワガタを獲ったりしているらしい。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。
  • あまり知られていないが漫画にも詳しく、ブックオフなどで絶版の漫画を探している。またゲームも相当好きであり、新作で面白いものがでれば、それをクリアする予定を基に、シーズンオフのスケジュールを組むほどの熱の入れっぷり。
  • 他に、競馬好きでもある。
  • 小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることは他のファンにも有名。

来歴

入団当初

1984年日大藤沢高からドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。入団当時、野球解説者だった星野仙一は「背番号が34で左投げというから『金田正一さん2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っている。以後山内一弘監督時代は一軍登板がなく、1986年のシーズン最終戦で登板したのみで、星野仙一監督が就任した1987年はルーキー・近藤真一の存在で登板機会に恵まれなかった。

1988年アメリカ留学でロサンゼルス・ドジャースアイク生原よりスクリューボールを習い素質が開花。この時生原を仲介に、当時のドジャースの大エース、フェルナンド・バレンズエラ(背番号は山本と同じ34番)よりシンカー(スクリューボール)を教わったという伝説があるが、その後本人の話で違うことが発覚。

それによると、実際バレンズエラから教わりはしたが、あまりに高度な話で全く理解できなかったため、結局習得出来ず、1Aで不貞腐れていた(中日からそのシーズンは戦力外という扱い)という。しかし当時、たまたま居たメキシコ人の三塁手スパグニョーロ(控えの控えレベル)が、“遊び”で仲間とピッチングをしており、その選手がシンカーを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらった後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。
よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後登板毎に使っていると、1Aのオールスターまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし山本昌のビデオを見た星野監督が、山本昌の成長ぶりに慌てて日本に呼び戻すこと(星野自身は「メジャーでもやらせてあげてもよかったが球団の意向で」と言う説も)を決定したため、ロースター入りはならなかった。当時投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、直後に一軍で5連勝し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは秘密兵器として第3戦の先発に抜擢され、工藤公康と投げ合い負け投手となるも、将来の活躍を予感させるものがあった。

1984年に入団時より背番号34である。ドラフト5位で高卒ながらいい番号(金田正一永久欠番であることから、日本プロ野球では左投手のエースに与えられることが多い)であるが(しかも前任はエースの小松辰雄)、これは単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである。(1位藤王康晴:背番号1(後に0に変更)、2位仁村徹:背番号24(後に5に変更)、3位三浦将明:背番号26(後に60に変更)など)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が付けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから、変えたくない」と拒否した。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着るという。

登録名の事情

1990年、中日に山本保司という選手が入団して山本姓が2人になったため、山本(昌)・山本(保)と書いて区別した。その後山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本(昌)」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は『昌』を取られることを拒否し、げんを担いで登録名を山本昌(姓と名は一続き)としている。

その後1993年1994年に2年連続最多勝。この時代、今中慎二とともに1990年代の中日投手陣を支えた。特に1994年はシーズン19勝8敗で沢村賞を受賞している。

1997年初の開幕投手を任され横浜相手に8回2/3を投げ自責点2で白星(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録した投手となる)。その後18勝で3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振。しかし中日は最下位と低迷した(ちなみに山本昌は2001年札幌ドーム初の公式戦でも巨人相手に先発している)。

2004年シーズンでもローテーションの1人として13勝6敗の成績を残す。

2006年9月9日広島戦で通算2000奪三振を達成(相手打者は新井貴浩)。

史上最年長ノーヒットノーラン

2006年9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の三塁手森野失策による1人のみの準完全試合(無四死球は史上2人目)。41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録。また、左腕に限れば、世界記録である。ちなみにそれまでの記録は佐藤義則が1995年8月26日に記録した40歳11か月であった。中日投手では2002年の川上憲伸以来の10人目。ナゴヤドームにおいて初めて記録を達成した投手である。

2006年9月30日の阪神戦で40歳代としては若林忠志村田兆治工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。また、同年10月15日の横浜戦では最近では珍しくリリーフで登板し、1997年以来9年ぶりのセ・リーグ最長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。 なお、リリーフで登板したのは日本シリーズのための調整登板である。この日の試合は中田が先発し、川上が2番手、山本が3番手という形で1人3イニングずつ投げたが、これは日本シリーズへの調整登板として当初から中田、川上、山本の3人が3イニングずつ投げる事が予定されており、その順番を決めるためのジャンケンの結果から山本が最後になったためである。結果としては2番手の川上に勝利が、山本にセーブが付いた。

200勝へ向けて

200勝へ後9勝と迫っていた2007年シーズンは、開幕から2試合白星がなかったものの、3試合目の登板となった4月17日の阪神戦で今季初勝利を完封で上げる。この時の山本の年齢、41歳と8ヶ月6日での完封勝利はセリーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。 5月13日の巨人戦で2勝目を上げ、同27日の日ハム戦では史上80人目の500試合登板を達成したものの、終盤に打ち込まれ黒星。試合後落合監督からは「自滅」と評され、二軍落ちとなった。 その後一軍復帰するも活躍できず、2勝止まりでシーズンを終えた。

同年の日本シリーズの出場選手40人枠に入ってはいたものの登板はなかった。しかし、チームは53年ぶりの日本一となり悲願は達成された。

略歴

  • 身長・体重 186cm・87kg
  • 投打 左投左打
  • 球歴・入団経緯 日大藤沢高-中日
  • プロ入り年度・ドラフト順位 1983年(5位)

通算成績(2007年シーズン終了時)

年度


































1984年 中日 0 0 0 0 0 0 0 0 0.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00
1985年 0 0 0 0 0 0 0 0 0.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00
1986年 1 0 0 0 0 0 0 5 0.2 2 1 1 0 2 0 0 2 2 27.00
1987年 3 0 0 0 0 0 0 11 1.2 2 0 4 0 1 1 0 3 3 16.20
1988年 8 5 0 0 2 2 0 184 48.2 28 1 13 1 35 0 0 4 3 0.55
1989年 35 9 9 1 5 2 1 757 181.0 172 14 56 2 108 3 0 66 59 2.93
1990年 26 10 7 0 6 1 0 646 152.0 154 23 45 4 77 5 0 67 60 3.55
1991年 33 6 8 1 2 0 0 618 144.0 158 14 43 3 96 1 0 73 58 3.63
1992年 30 13 10 0 5 2 0 709 170.2 158 22 49 2 135 3 0 73 65 3.43
1993年 27 17 5 0 10 5 1 710 188.1 140 16 30 3 132 1 0 46 43 2.05
1994年 29 19 8 0 14 2 2 868 214.0 203 19 46 0 148 1 0 86 83 3.49
1995年 12 2 5 0 3 1 0 302 74.2 70 15 17 1 61 1 0 43 40 4.82
1996年 26 7 9 1 6 2 0 647 154.2 159 17 38 3 119 4 1 72 63 3.67
1997年 29 18 7 1 4 1 1 838 206.2 174 26 57 3 159 1 0 74 67 2.92
1998年 28 9 9 0 5 3 0 769 182.0 185 14 60 2 131 1 0 74 74 3.66
1999年 25 8 5 0 1 0 0 661 158.1 149 16 44 3 116 1 0 55 52 2.96
2000年 28 11 9 0 5 2 1 608 151.2 129 16 36 2 104 3 0 50 44 2.61
2001年 28 10 13 0 2 2 1 672 163.2 160 12 44 2 98 3 0 69 66 3.63
2002年 21 7 6 0 1 0 1 352 86.1 90 10 9 0 67 1 0 40 38 3.96
2003年 26 9 7 0 0 0 0 653 156.0 156 19 35 9 121 1 0 69 62 3.58
2004年 27 13 6 0 1 1 0 653 157.0 153 16 43 2 120 2 0 56 55 3.15
2005年 22 7 8 0 0 0 0 513 116.0 137 12 31 8 69 2 0 63 63 4.89
2006年 27 11 7 1 3 2 1 686 170.2 147 11 36 6 124 2 0 65 63 3.32
2007年 19 2 10 0 1 1 0 469 108.1 124 13 27 4 71 0 0 68 61 5.07
通算成績 510 193 148 5 76 29 9 12331 2987 2850 307 764 60 2094 37 1 1218 1124 3.39

タイトル・偉業

  • 沢村賞
1994年
  • 最多勝利
1993年、1994年、1997年
  • 最優秀防御率
1993年
  • 最多奪三振
1997年
  • ベストナイン
1994年、1997年
1993年(相方は中村武志捕手)
  • ノーヒットノーラン(日本最年長記録)
2006年9月16日(対阪神戦)
  • セリーグ最年長セーブ
41歳2ヶ月(2007年シーズン終了時)
  • セリーグ最年長完封勝利
41歳8ヶ月(2007年シーズン勝利時)

CM出演

関連項目

外部リンク

先代:
斎藤雅樹
セ・リーグ最多勝投手
1993年-94年
今中慎二(1993)
野村弘樹(1993)
次代:
斎藤雅樹
先代:
盛田幸妃
セ・リーグ最優秀防御率
1993年
次代:
郭源治
先代:
今中慎二
沢村賞
1994年
次代:
斎藤雅樹
先代:
斎藤雅樹
B.ガルベス
セ・リーグ最多勝投手
1997年
次代:
川崎憲次郎
先代:
斎藤隆
セ・リーグ最多奪三振
1997年
次代:
石井一久


中日ドラゴンズ
1983年ドラフト指名選手
1位:藤王康晴 / 2位:仁村徹 / 3位:三浦将明 / 4位:山田和利 / 5位:山本昌広 / 6位:清水治美
ウィキペディアでの『山本昌』の改訂履歴
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