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広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。広島県を保護地域とし、同県広島市中区にある広島市民球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
親会社を持たない市民球団として結成されたという独自の歴史を持つ。
| チーム名 | 広島東洋カープ |
|---|---|
| 会社名 | 株式会社広島東洋カープ |
| 加盟団体 | セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) |
| 創設年度 | 1950年(1軍)、不明(2軍) |
| チーム名の遍歴 | (1軍) 広島カープ(1950年 - 1967年) →広島東洋カープ(1968年 - ) (2軍) 広島グリーンズ(1954年 - 1955年) → 広島カープグリナーズ(1956年 - 1957年) → 広島カープ(1958年 - 1967年) →広島東洋カープ(1968年 - ) |
| フランチャイズの遍歴 | 広島県(1952年 - ) |
| 本拠地 | 広島市民球場(1軍)、広島東洋カープ由宇練習場(2軍) |
| 収容人員 | 31,984人(広島市民) |
| オーナー | 松田元 |
| 親会社 | なし (独立採算・マツダも株を保有) |
| 監督 | マーティー・ブラウン |
| タイトル | リーグ戦:6回、日本シリーズ:3回 |
| 優勝年度 | (リーグ戦)1975、1979、1980、1984、1986、1991 (日本シリーズ)1979、1980、1984 |
※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はAクラス入り(3位)になっていた。
JR広島駅東部に広がる貨物ヤード跡への新球場建設が決定している。新球場の項も参照。
※1 ここから広島東洋カープ
※2 1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行
※3 1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは野崎泰一が代行
※4 1999年から2000年の登録名は達川晃豊
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
カープは当初、広島県、広島市、呉市、中国新聞、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。
また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照されたい。
1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え[要出典]、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。1984年にマツダが東洋工業から社名変更した際、球団名を“広島マツダカープ”に変更するという話[要出典]があったが、「販売店の広島マツダと混同する」という理由から立ち消えになっている。
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜やダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(俗に言うFA残留のこと)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、年俸の高騰を招くため他球団のFA選手の獲得も行っていない[2]。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが結局認めてもらえなかった。そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手が「他球団の評価は是非聞いてみたい」と主張(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)、近年の消極的な編成(第2次山本政権時代には他球団とのトレード(交換、金銭)すら行われない年が何年もあった)や弱小な投手力が低迷の要因のひとつである広島にとって彼の流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかし黒田は会見で「市民球場で、カープの選手やカープファン相手に投げる自分が想像できなかった」と述べFA権を行使せずに残留したため、現在も広島にFA残留した選手はいない。2007年は黒田に加え新井貴浩内野手もFA残留を認める方針となっているが、両選手ともに移籍を視野に入れてFA宣言しており、2008年は戦力面で危機的な状況にあるといわれている。
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか12日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
1949年の球団創設から現在に至るまでの特筆すべき事項として完全試合を献上する率が12球団一高い(楽天加盟の現行方式はもちろん、大阪近鉄が存在していた時代も含めて)事で知られている。広島がはじめて完全試合を献上したのは1956年9月19日の国鉄(現:ヤクルト)戦で宮地惟友に達成されたのが最初。1966年5月1日の大洋(現:横浜)戦で佐々木吉郎に達成されて2度目。そして1994年5月18日の巨人戦で槙原寛己に達成され中日と並んでワーストトップタイだったのが単独トップとなってしまったのである。しかしただ達成されただけではなく達成した選手もいて外木場義郎が1968年9月14日に達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。
1964年入団の安仁屋宗八投手は当時アメリカの占領下にあった沖縄の出身で沖縄高校、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。しかし、90年代後半から続いている広島のふがいない成績や戦いぶりに「もう一度この会を復活させよう」という声が上がっているのも事実である。
1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行ったのは、1952年に現在のフランチャイズ制が確立されて以降これが唯一である。
日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治(巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名。回数は3回である。
外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。
1979年、近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、この詳細はNHK特集に取り上げられた。
カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈される が、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦の清原和博選手(現・オリックス)の打席後、及び2006年8月2日の東京ヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
1988年6月26日、盛岡での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。
| 守備 | 選手 |
|---|---|
| 二 | 正田耕三 |
| 右 | 山崎隆造 |
| 遊 | 高橋慶彦 |
| 一 | 小早川毅彦 |
| 中 | 長嶋清幸 |
| 左 | 松林和雄 |
| 三 | 高信二 |
| 捕 | 達川光男 |
| 投 | 大野豊 |
小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
1984年2月28日、鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。
| 守備 | 選手 |
|---|---|
| 二 | 山崎隆造 |
| 中 | 長嶋清幸 |
| 遊 | 高橋慶彦 |
| 一 | 長内孝 |
| 三 | 小早川毅彦 |
| 左 | 西田真二 |
| 右 | 定岡徹久 |
| 捕 | 山中潔 |
| 投 | 川口和久 |
アメリカ合衆国のメジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー(通称・カープアカデミー)をドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。
1998年5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。
2007年4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。
2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組「ペット大集合!ポチたま」とのコラボレーションでエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)ミッキーと共演を果たした。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
| 月日 | 対戦相手 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 4月6日 | 阪 神 | 白石勝巳 | ※1 |
| 4月7日 | 阪 神 | 長谷川良平 | |
| 4月8日 | 阪 神 | 長谷部稔 | |
| 4月9日 | ヤクルト | 渡辺信義 | |
| 4月11日 | ヤクルト | 松山昇 | ※2 |
| 4月20日 | 巨 人 | 川本徳三 | |
| 4月21日 | 巨 人 | 備前喜夫 | |
| 4月23日 | 中 日 | 原田信吉 | |
| 4月24日 | 中 日 | 緋本祥男 | |
| 4月25日 | 中 日 | 平山智 | |
| 5月8日 | 中 日 | 古葉竹識 | |
| 5月9日 | 中 日 | 鵜狩道夫 | |
| 5月11日 | 巨 人 | 山本一義 | |
| 5月12日 | 巨 人 | 安仁屋宗八 | |
| 5月28日 | 横 浜 | 衣笠祥雄 | |
| 5月29日 | 横 浜 | 大石弥太郎 | |
| 5月30日 | 横 浜 | 三村敏之 | |
| 6月11日 | ヤクルト | 河合昭時 | |
| 6月12日 | ヤクルト | 高橋里志 | |
| 6月13日 | ヤクルト | 久保俊巳 | |
| 6月15日 | 阪 神 | 水沼四郎 | |
| 6月16日 | 阪 神 | 深沢修一 | |
| 6月25日 | 巨 人 | 木下富雄 | |
| 6月27日 | 巨 人 | 山本浩二 | ※3 |
| 7月6日 | 横 浜 | 北別府学 | ※4 |
| 7月7日 | 横 浜 | 小林聖始 | |
| 7月8日 | 横 浜 | 今井譲二 | |
| 7月30日 | 巨 人 | 金石昭人 | |
| 7月31日 | 巨 人 | 川口和久 | |
| 8月1日 | 巨 人 | 高橋慶彦 | |
| 8月4日 | 横 浜 | 渡辺弘基 | |
| 8月5日 | 横 浜 | 宮本幸信 | |
| 8月13日 | 中 日 | 及川美喜男 | |
| 8月14日 | 中 日 | 高木宣宏 | |
| 8月15日 | 中 日 | 福島久晃 | |
| 8月19日 | ヤクルト | 新美敏 | ※5 |
| 8月25日 | 阪 神 | 小川達明 | |
| 8月27日 | 巨 人 | 高橋直樹 | |
| 8月28日 | 巨 人 | 定岡徹久 | |
| 8月29日 | 巨 人 | 中利夫 | |
| 9月4日 | 中 日 | 野村謙二郎 | |
| 9月5日 | 中 日 | 江藤智 | |
| 9月14日 | ヤクルト | 前田智徳 | |
| 9月15日 | ヤクルト | 浅井樹 | |
| 9月25日 | 横 浜 | 金本知憲 | |
| 9月26日 | 横 浜 | 福地寿樹 | |
| 9月28日 | 阪 神 | 玉木朋孝 | |
| 9月29日 | 阪 神 | 木村拓也 | |
| 9月30日 | 阪 神 | 嶋重宣 | |
| 10月1日 | 阪 神 | 江夏豊 | ※6 |
| 10月3日 | ヤクルト | 朝山東洋 | |
| 10月4日 | ヤクルト | 野々垣武志 | |
| 10月5日 | 横 浜 | 新井貴浩 | |
| 10月6日 | 横 浜 | 東出輝裕 | |
| 10月11日 | 巨 人 | 緒方孝市 |
※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。
2006年3月2日、読売新聞掲載の、同社がおこなった全国世論調査で、好きなチームの問いに、 巨人、阪神、中日、ソフトバンクに次いで、広島は5位にランクされた。この調査は全国250地点でおこなわれた。
2007年度の中央調査社の調査では6位。最高順位は2003年の4位(ダイエーと同率)。
一般に広島県民は「進取性がある」という県民性を持つと言われ、新商品のテスト販売が広島県内で行われることが多い。この進取性がある性格は広島県民の大半が当てはまるカープファンにも言えることで、現在のスタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことで知られている。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
| 監督 |
|---|
| 71マーティ・レオ・ブラウン |
| コーチ |
| 75ジェフ・リブジー(ベンチ)|72内田順三(打撃統括)|88小早川毅彦(打撃)|73小林幹英(投手)|87澤崎俊和(ブルペン)|77高信二(内野守備走塁)|85永田利則(外野守備走塁)|84植田幸弘(バッテリー)|89水本勝己(ブルペン補佐) |
| 二軍監督・コーチ |
| 76山崎立翔(監督)|82浅井樹(打撃)|80山内泰幸(投手)|74岡義朗(内野守備走塁)|83朝山東洋(外野守備走塁兼打撃補佐)|78熊沢秀浩(バッテリー) |
| 三軍コーチ |
| 81道原裕幸(バッテリー)|86阿部慶二(野手) |
| 投手 |
| 11小山田保裕|13佐竹健太|14篠田純平|15黒田博樹|16宮崎充登|17大竹寛|18前田健太|19上野弘文|20永川勝浩|21ダグラス|22高橋建|23横山竜士|24河内貴哉|28広池浩司|29佐藤剛士|30森跳二|36青木勇人|39梅津智弘|42長谷川昌幸|46大島崇行|47青木高広|48フェルナンデス|53林昌樹|58小島心二郎|60齊藤悠葵|62今井啓介|65相澤寿聡|67丸木唯|68金城宰之左|93マルテ|95カリダ|122山中達也(育成選手) |
| 捕手 |
| 12白濱裕太|31石原慶幸|40倉義和|61山本翔|64会沢翼|66上村和裕 |
| 内野手 |
| 00山崎浩司|2東出輝裕|4尾形佳紀|5栗原健太|6梵英心|10比嘉寿光|44喜田剛|45松本高明|52大須賀允|56中谷翼|57甲斐雅人|59山本芳彦 |
| 外野手 |
| 0井生崇光|1前田智徳|9緒方孝市|26廣瀬純|33鞘師智也|35中東直己|41森笠繁|43アレックス|50鈴木将光|51末永真史|54吉田圭|55嶋重宣|69天谷宗一郎 |
| セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
|---|---|
|
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
| イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
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北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス |
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| 広島東洋カープドラフト指名選手 |
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1965| 1966| 1967| 1968| 1969| 1970| |
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