| 第一次世界大戦 | |
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![]() 上段より西部戦線の戦場跡、中段左ソッピース キャメル複葉機、同右塹壕を横断するマークI戦車、下段左ガスマスクを装着するヴィッカース重機関銃の操作手、同右ガリポリの戦いで沈むイギリス戦艦イリジスタブル。 |
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| 戦争: | |
| 年月日:1914年7月28日 - 1918年11月11日 | |
| 場所:ヨーロッパ、中東、アフリカ、中国、太平洋 | |
| 結果:連合国(協商国)の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 連合国 など |
中央同盟国 |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 損害 | |
| 戦死者 553万人 戦傷者 1,283万人 行方不明 412万人 |
戦死者 439万人 戦傷者 839万人 行方不明 363万人[1] |
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん, World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた世界規模の大戦争である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。大戦争(The Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれる。
目次 |
当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。1914年、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子のフランツ・フェルディナントが暗殺されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[2]。
各国はドイツ・オーストリア・オスマントルコ・ブルガリアの中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が「クリスマスまでには」終わると楽観していた。しかし戦場においては機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら陣地を進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着する。戦争の長期化は交戦国に国民経済を総動員する国家総力戦を強いることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。
国力に劣る中央同盟国は長期戦により経済が停滞した。1918年に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、11月にドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された(史上1位は太平天国の乱。この記録は第二次世界大戦によって塗り替えられることになる)。またこの戦争によって当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出している。
19世紀後半以降、鉄道が軍事的に重要な意味を持つようになった。鉄道網が整備された国では、平時には徴兵制度を施行して国民に訓練を施し、戦時には国民を鉄道を使って総動員することで、短期間のうちに国境線に大部隊を集結させることが可能となった。総動員下令のタイミングの遅れは戦争の敗北に直結しかねないため、列強の参謀本部は鉄道ダイヤまでを含む綿密な戦争計画を研究した。
戦術的には鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。タンネンベルクの戦いでは、東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道を効果的に活用することで各個撃破に成功している。
さらに、19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた重装騎兵の突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入された飛行機、戦車などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても歩兵だった。
このような防御側優位の状況の中、西部戦線では塹壕戦が生起した。スイス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて毒ガス兵器が使われた。
開戦時にイギリス海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、「第一次世界大戦以降、戦場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評した。
1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼ね、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの改革によっても帝国内の民族問題は解決されなかった。当時の帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループおよび5つの主な宗教が存在していた。
オーストリア=ハンガリー帝国の最大の関心は東方問題にあった。政府を主導するオーストリア人とハンガリー人は、帝国南部で台頭するスラブ人の民族主義運動に深い疑いと憂慮を持ち、1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国セルビアの領土が約2倍になったことを警戒していた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が帝国内の他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。
ドイツ帝国は1871年に普仏戦争でフランスに勝利し成立した。ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを国際的に孤立化させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を締結、1887年にはロシア帝国と独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。
ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。これは広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩くという計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、またベルギーの中立侵犯を国際的汚名やイギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。
イギリスは伝統的にブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーの独立と中立を保証していた。ベルギーの中立を守るためには、フランスであれドイツであれ、先にベルギーの中立を侵犯した側の敵側に立って参戦すると表明していた。
だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強はドイツ・オーストリア・イタリアを軸とする三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアを軸とする三国協商を形成した。
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の継承者、皇太子フランツ・フェルディナントが、ボスニアの首都、サラエボでセルビア人民族主義者ガブリロ・プリンチプにより暗殺された。オーストリアのレオポルド・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。
ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉[3]は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。
ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアが総動員令を発すると、参謀総長小モルトケはシュリーフェン・プランに基づいて8月1日総動員を下令し、同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。
ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、8月1日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定したプラン17と称される戦争計画を発動した。8月4日、ヴィヴィアン首相は、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけた。議案は全会一致で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。
イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告し、フランスへの英国遠征軍 (BEF) の派遣を決定した[4]。また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに倣い参戦した。同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦することとなる。
日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。大隈重信首相は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。
イタリアは1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、オーストリアとの領土問題からイギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。オスマントルコは数度にわたる露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声を高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。
詳細は西部戦線 (第一次世界大戦)を参照
1914年の開戦時、普仏戦争以来ヨーロッパで40年振りの戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿で描写され、両陣営の国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、少数の戦闘からなる短いものとなるだろう。そして敵国の首都へ入城して終わり、「クリスマスまでには」凱旋して普段の生活に戻れるだろう。多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。
しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリスのホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍を構想した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。
中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防衛を求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために再移動させざるを得なくなり、あちこちで鉄道輸送の混乱が生じた。
オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、8月12日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、8月19日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、ロシア戦線との二正面作戦を強いられることになる。
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、8月2日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は8月4日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギー軍は鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。
イギリスは陸軍大臣にキッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(8月14日 - 8月24日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い(8月17日 - 9月2日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。
9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦(9月5日 - 9月10日)において、フランス軍はタクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。
アフリカでは、8月8日、英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入した。8月10日には南西アフリカのドイツ軍部隊がイギリス領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。その後もアフリカでは戦争終結まで散発的な戦いが継続された。太平洋では、8月30日にニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア)を占領した。また9月11日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に連合国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。11月7日には、ドイツの中国での拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した(青島の戦い)。
第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。西部戦線での戦闘は、1914年のクリスマスを過ぎても終わらなかった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続けられた。数百万の兵士が塹壕に貼りつき、いずれの側も敵軍に決定的な打撃を与えることはできなかった。
ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。
詳細は中東戦線 (第一次世界大戦)を参照
オスマントルコは戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。トルコの背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたトルコはこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが10月31日にトルコへ宣戦したことを契機に、トルコは中央同盟国側に立って参戦した。
トルコはロシアのカフカース地方、およびスエズ運河を経由するイギリスとインド・東洋間の連絡線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルが熱心に推進した。
1915年2月、ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のトルコ軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、トルコ軍は粘り強く抵抗し、3月18日にはトルコ軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。4月25日、連合軍はガリポリ半島へ上陸したが、後にトルコ革命の指導者となったムスタファ・ケマルの率いるトルコ軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。
ロシア軍はカフカースに精鋭部隊を置いていた。トルコ軍最高司令官エンヴェル・パシャは野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは1914年12月にカフカースのロシア軍を攻撃したが、山岳地帯のロシア陣地に対する正面攻撃を強行して兵力の大半を失った。
1915年秋、新しいロシア軍前線指揮官ニコライ大公が戦線を再構築し、1916年にトルコ軍を現在のアルメニアの大部分から駆逐した。トルコ政府はアナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺問題を引き起こした。
ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。もし攻勢が予定通り進められたなら、かなりの確率でトルコは1917年夏に敗北していただろう。しかし、ロシア革命のためにニコライ大公は解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。
イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援してアラブ反乱を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのがアラビアのロレンスことトーマス・エドワード・ロレンスだった。メソポタミアでは1917年3月イギリス軍がバグダードを攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー率いるエジプト遠征軍が1917年12月にエルサレムを占領した。1918年10月、イギリス軍とアラブ軍はダマスカスに入城、アラブからトルコ勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。
連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。1916年5月、ドイツ艦隊は一度だけ北海への出撃を試み、5月31日から6月1日にかけてユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。
1917年2月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク首相を説き伏せて、Uボートによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり500,000トンまで達し、4月に860,000トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、1917年7月以降に導入した護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。
詳細はイタリア戦線 (第一次世界大戦)を参照
イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリア領土に対して野心を持っており、1902年のフランスとの秘密協約により実質的に同盟を無効にしていた。開戦時にイタリアはドイツとオーストリアへの協力を拒否し、1915年4月にロンドン協定に署名し連合国に参加、同5月にオーストリアへ宣戦布告、さらに15か月後にドイツへ宣戦布告した。
イタリア軍は数で勝っていたが装備は貧弱だった。これに対し、オーストリア軍は国境地帯の山がちな地形を利用して攻撃を阻んだ。1915年にイタリア軍はトリエステに近いイソンゾ川の戦線で大規模な攻撃を17回行ったが、斜面の山側を守っていたオーストリア軍によって挫折させられた。1916年は両軍とも部分的な攻勢を実施したが、戦線は膠着したままだった。
1917年秋、東部戦線の状態が好転し、オーストリア軍は突撃歩兵を含むドイツ軍の増援を受けた。10月26日、独墺軍は浸透戦術を用いた大攻勢に成功し、イタリア軍は一旦は総崩れとなった(カポレットの戦い)。イタリア軍は100キロ以上後退し、英仏軍の増援を得た後にようやくピアヴェ川の線で戦線を再構築することができた。1918年を通じてオーストリア軍はこのイタリア軍の防衛線を破ることができなかった。
カポレットの戦いで中央同盟軍が決定的勝利を得たことにより、連合国側はイタリアのラパッロで会談し、それまで個別の指揮系統下で行動していたのを改め、指揮系統統一のためヴェルサイユに連合国最高会議を組織することを決定した。
詳細は東部戦線 (第一次世界大戦)を参照
西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。ロシアの遅れた経済と軍事組織では、ドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。
セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、ブルガリアが中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍がドナウ川を渡河しベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニアとギリシアへの逃亡を余儀なくされた。英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。
1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいて浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍は短期間のうちに撃破され、12月6日にブカレストが中央同盟軍に落ちた。
詳細はロシア革命を参照
戦争が長期化するにつれて、ロシア政府の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンドラの政治はさらに無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりアレクサンドラの寵臣グリゴリー・ラスプーチンが暗殺される事態に至る。
1917年3月、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派臨時政府が成立した。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した。
12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した、初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していたウクライナ国民共和国が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全ウクライナを奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日にブレスト=リトフスク条約に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。
詳細はシベリア出兵を参照
ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへ出兵した。連合軍はバレンツ海に面したアルハンゲリスクと、太平洋側のウラジオストクに上陸した。出兵は第一次世界大戦の終結後も継続され、1925年の日本軍の北樺太撤収を最後に終了した。
詳細は西部戦線 (第一次世界大戦)を参照
アメリカ合衆国は長い間モンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したこと、さらにツィンメルマン電報事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。さらにウッドロウ・ウィルソン大統領は連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は82対6、下院は373対50をもってこれを決議、1917年4月6日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは1917年12月にオーストリアに対しても宣戦布告した。
アメリカ陸軍と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。アメリカ海軍は連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍指揮官ジョン・パーシング将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。
ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。皮肉なことではあるが、ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない。
ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。
1918年3月21日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。
ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュによる巧みな戦線の再構築によってルーデンドルフが意図していた突破の可能性は消滅し、従来と同様の消耗戦の様相を呈してきた。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までには毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。
フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する攻撃を企画し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600台以上もの戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘では全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。
ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任した。
しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特にマッテヤ・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような社会主義革命の危険性を減らすと信じた。
社会民主党のマックス・フォン・バーデン公爵が責任者になり、和平交渉が彼の所掌下に置かれた。フォン・バーデンは立憲君主制か帝政の完全な廃止かの間で迷っていたが、1918年11月9日にフィリップ・シャイデマンが帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツを共和国であると宣言すると、フォン・バーデンは、皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表した。帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これがワイマール共和国である。
中央同盟国の中で最初に休戦協定に署名したのはブルガリアだった(1918年9月29日)。トルコは10月30日に降伏した。オーストリアとの休戦は11月4日午後3時に発効した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルグ体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。
ドイツでは11月9日に共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌日ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命した。11月11日にパリ郊外コンピエーニュの森に置かれた食堂車2419Dの車内において、ドイツは連合軍との休戦協定に署名し、11月11日午前11時に軍事行動は停止された[5]。公式には戦争はヴェルサイユ条約の締結により終わった。
詳細は第一次世界大戦下の日本を参照
日本は日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島を攻略した他、1917年にはインド洋と地中海で連合国側商船の護衛と救助活動を行った。また、1917年10月のロシア革命後の1919年にシベリア出兵を実施した。これらの功績により、大日本帝国も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋群島を信託統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。
戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜を丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県板東の俘虜収容所など12の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。
古い思想の戦争のまま始められた第一次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結果をもって終了した。長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。
これまでの戦争では賠償金によって損失を取り戻すことが普通だったが、第一次世界大戦による損害はもはや敗戦国に負わせられるようなものではなかった。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎悪し、敗戦国に過酷な条件を突きつけることとなった。
第一次世界大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家、ハプスブルグ家、オスマン家、そしてロマノフ家の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦争中か戦後に没落した。またこの戦争は、ボリシェヴィキがロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。
1919年にパリ講和会議が始まる。ドイツでは皇帝家であるホーエンツォレルン家を始めすべての王侯貴族が追放された。またヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられたために激しいインフレーションが引き起こされた。さらに条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、ルール問題、ズデーテン問題、ポーランド回廊問題が発生した。これらの問題は第二次世界大戦の直接の原因となった。
オーストリアでも600年以上に渡って君臨してきたハプスブルク家が追放された。多民族国家だったオーストリアは、サン=ジェルマン条約により、民族自決の大義のもと旧帝国内の地域がこぞって独立、従来の4分の1にまで領土を減らされ小国に転落した。中央ヨーロッパには新しい国家チェコスロバキアとユーゴスラビアが生まれ、ポーランドが復活した。
オスマントルコはセーヴル条約により多くの領土を減らされた。この時イギリスがアラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後のパレスチナ問題につながってゆく。オスマントルコは講和締結をめぐる論争の中で崩壊し、近代民主主義国家トルコが誕生した。ギリシャとトルコの希土戦争は1924年に終わるが、これが第一次世界大戦に直接起因する最後の戦争である。旧オスマン帝国の崩壊は現代につながる国際紛争の原因を生み出した。アラブ諸国とイスラエルの衝突、キプロスを巡るギリシャとトルコの対立、1980年代のイラン・イラク戦争、1990年代の湾岸戦争とユーゴスラビア紛争、そして21世紀のイラク戦争である。
第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がった。戦後の国際関係においては平和協調が図られた。1920年にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925年にはロカルノ条約、1928年には主要国間で不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。
しかしながら、これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、世界恐慌による経済危機により、イタリアではファシズムが、ドイツではナチズムが台頭する。戦争終結のわずか20年後、人類史上類のない被害をもたらす世界大戦が再び繰り返されるのである。
第一次世界大戦のイタリアを舞台に、アメリカ人のイタリア兵フレデリック・ヘンリーとイギリス人看護婦キャサリン・バークレイとの恋を描く。ヘミングウェイ自身の、イタリア北部戦線の従軍記者時の体験をもとにしている。