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落合博満

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月19日 (月) 05:17。)
落合博満
現在 中日ドラゴンズ監督
所属球団 日本ハムファイターズ
国籍 日本
出身地 秋田県南秋田郡若美町(現男鹿市
誕生日 1953年12月9日(54歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
血液型 O型
守備位置 内野手
投球打席 右投右打
背番号 6(ロッテ・中日現役時)
英語表記 OCHIAI
年俸 1億5000万円(2007年)
初出場 1979年
最終出場 1998年
経歴 秋田工業高校-
東洋大学(中退)-東芝府中-
ロッテオリオンズ-
中日ドラゴンズ-
読売ジャイアンツ-
日本ハムファイターズ
テンプレート

落合 博満おちあい ひろみつ1953年12月9日 - )は、 プロ野球選手監督。右投げ右打ち。守備位置は内野手2004年から中日ドラゴンズ監督。秋田県南秋田郡若美町(現男鹿市)出身。

目次

来歴

  • 秋田県立秋田工業高等学校を卒業後、東洋大学に入学するが周囲と合わず半年で中退。先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、等といった体育会系の慣習に納得できず、野球部を退部し大学もやめて秋田に帰ってしまった。
  • その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。
  • しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気府中工場所属の季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここで頭角を現して1978年ドラフトロッテオリオンズに3位指名されて入団。
  • プロ入り当時のロッテの監督、山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン捕手土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った。また打撃コーチの高畠康真は落合のこのリストワークが気に入り、1980年ロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。高畠は「データ野球」の元祖南海ホークス時代から、その諜報活動の中心にいた人物[要出典]で、初めて対戦する投手でも打者一巡するまで観察したら、ほぼ球種を言い当てた。この高畠から落合は球種を読むテクニックを教わった。
  • しかし、出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり、決して落合は山内に悪い感情は抱いていない(週刊ベースボール内コラムより)。以上のことが、落合がオレ流と呼ばれる所以となった。
  • 入団当初、その凝り固まったフォームをキャンプに来ていた評論家も皆酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。この時の思いを、後年落合は「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。落合の名球会拒否は金田が名球会の中心人物だからであると言われている。読売ジャイアンツに入団した際も、ジャイアンツのかつての名選手を訊かれ、「王さん長嶋さん、金田」と金田のみを呼び捨てにしたため物議を醸した。また、落合はロッテ時代「オレは1999本ヒットを打てばいつでも引退する」(名球会入会資格の2000本安打の1本手前)と発言した事もあり、この事から、名球会を、そして金田を遠回しで非難している事が伺える。
  • 1980年、二軍調整中の江川卓のボールを、センターバックスクリーンに打ち込んだ。このシーンは現在も放送されるが、打たれた江川はセンターフライと思いマウンドを降りかけていたところ、打球は、途中から伸びスタンドに突き刺さる。柔らかく、そして強いリストを効かせ、で叩くような落合の打法の特徴がよく現れている。5試合連続本塁打イースタン・リーグ記録を作り、後期に一軍へ戻ると57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴み、翌年1981年には早くも首位打者のタイトルを獲得した。
  • 1982年、史上最年少で三冠王に輝く。しかし、数字的には突出したものではなく(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。これに反発した落合は1985年に圧倒的な成績で2度目の三冠を獲得した。(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)
  • 1986年も2年連続で3度目の三冠王を獲得。(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)因みに、2年連続の三冠王は日本プロ野球界の現時点において'73,'74の王、'85,'86のバース・落合の3名のみで、生涯3度獲得というのは落合のみの記録である。この年はブーマー・ウェルズ秋山幸二らとシーズン中盤まで熾烈なタイトルを争い繰り広げたが、シーズン終盤早々に消化試合になってしまう当時のロッテのチーム状況を味方に付けてタイトルを獲得。その一方、ロッテ時代は優勝に恵まれなかった(前後期制時代の半期優勝は経験)。また最後の三冠王となったこの年、落合の高騰し続ける年俸と球場の観客動員数の少なさがネックとなり、同年シーズンオフ牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂各選手との1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍
  • 1987年8月20日、長男・福嗣誕生。オフに中日移籍。年俸で日本人初の1億円プレーヤーとなる。
  • 1988年、32本塁打を放ち優勝に貢献するも、規定打席到達以来初めて打率3割を割ってしまう。
  • 1989年、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、逆転で打点王を獲得。
  • 1990年池山隆寛との争いを制し、34本で本塁打王を獲得。
  • 1991年、シーズン終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得しようとした結果、古田敦也との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。
  • 1993年オフ、フリーエージェント(FA)宣言し、読売ジャイアンツに移籍。長嶋茂雄監督の2度の胴上げ1994年1996年のリーグ優勝)に4番打者として貢献。
  • 1995年、2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。
  • 1996年オフ、清原和博の移籍入団に伴いプレーの場を求めて自由契約を申し出る。ヤクルト野村克也監督の誘いを断り、上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍し、1998年引退した。
  • 2001年までテレビ朝日解説者を務める(キャッチコピーオレ流解説)。その後はフリーとなっていたが、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送には度々登場していた(キャッチコピーはミスター三冠王(トリプルクラウン))。
  • 2004年、中日監督に就任。これ以前にプロ野球のコーチの経験はなかった(ただし、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズで臨時コーチの経験がある)が、1年目でリーグ優勝を達成。
  • 2006年、中日を2年ぶりのリーグ優勝に導く。しかし日本シリーズではまたしても1勝4敗で涙を呑んだ。
アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)
アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)
  • 2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神タイガース、読売ジャイアンツを破り、日本シリーズ出場。4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破り中日を53年ぶり2度目の日本シリーズ(落合曰く『プレーオフシリーズ』)制覇に導き、前年の雪辱をはらした。また、その後行われたアジアシリーズでも中日をアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。

人物評

  • 現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。
  • 彼は現役時代に2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべてホームランである。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にもホームランを打っている。落合は取材に来たテレビカメラに打撃練習の打球を狙って当てた事もあるほどのバットコントロールの持ち主であり、おそらくは節目を狙って意図的にホームランにしたのだと思われる。
    • その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
      ロッテ時代、東尾修との対戦で落合は頭部付近に死球を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つ、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。[1]
  • 通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまうその卓越した技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中で「アウトコース」という節で落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の玉を打つのが下手なのはいない。」と語っている。
  • 入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向、有藤道世の外野手転向により三塁手に戻り、その後、打撃に専念するために一塁手に転向した。一時二塁手だったため2000年日本野球機構などが行なった「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(落合の通算成績は20世紀ベストナインとするに十分であったが、一塁に王貞治、三塁に長嶋茂雄が選ばれるのは確実なので、なんとか落合を選出しようと多くのファンが知恵を絞った結果である)。また、この複数ポジションでの出場は監督としての現在に生きているとテレビで紹介された事がある。
  • 足が速くないので内野安打は望めない。したがって打球が内野の頭を超えなければ安打とはならない。「安打製造機」イチローと比較されることも多いが、この「内野安打の少なさ」、長打の多さは驚異的である。
  • バットを体の前でゆったりと構える独特の「神主打法」で右に左に打ち分け、3度の三冠王に輝く(2005年現在、日本プロ野球では唯一)など数々の記録を作った天才打者との誉れが高い。周囲の言動に左右されず、自分の持つ野球の技術を伸ばし磨くのに最も良いと思った方法を貫く姿勢は「オレ流」と呼ばれ、生意気だと批判される一方、人気も博した。近著『落合博満の超野球学』(ベースボール・マガジン社)は、そんなオレ流で培ったユニークな技術論の一端を垣間見させてくれる。その一方、ヒーローインタビューで「良い子の皆さんは、基礎が崩れるから、僕のバッティングを真似しないで下さい」と発言した事もあった。
  • 打撃の感触を重視するため、 グラブを使わずに素手でバットを握った。なお、デッドボール時の保護のため、リストバンドは使用していた。
  • 現役時代は「の為に野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた発言は賛否両論を巻き起こした。実際、チャリティー試合の出場を拒否したこともあった。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。「プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
  • 一匹狼的な雰囲気を醸し出していたが、実はチームメートに対しては優しく、面倒見も良かった。愛甲猛矢野輝弘清原和博小笠原道大など信奉者は数多い。不仲が噂されていた星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役も買って出ていたという。また、評論家時代にも、スランプに陥っていた中村紀洋松中信彦らが落合にアドバイスを求めるなど、選手からの信頼性は高いと言える。
  • 口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしているが、実際のところは全く逆であったようで、宇野勝は「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、彼の打撃は状況に応じてヒット、ホームランを狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせた事もあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
  • ロッテ時代の1984年~1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでおり、唯一彼が無条件で従う人物といわれる。現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、三度目の三冠王に輝いた。この年のオフの世紀のトレードは稲尾の監督解任によるロッテへの不信感が一因とされている。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾が死去した日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
  • プロ入り前から長嶋茂雄の熱心なファンだった。ロッテ時代には取材を受けた際に「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた巨人復帰に釘を刺したことがある[1]。にもかかわらず、1992年、長嶋が巨人の監督に復帰すると落合はFAで巨人に移籍した。
  • 落合は20代で結婚もスピード破局し、その後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚愛妻家恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させた事でも知られる(詳細は落合信子の項目を参照)。2人の間には長男・福嗣がいる。
  • 現役時代、「監督は寝ていたほうが試合には勝てる」という冗談を発したとされるが、もちろん自身が監督に就任してから試合中に寝たことはない。
  • パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。
  • 歴代最高の打者は巨人ファンの間では「左の、右の長嶋」であるが、プロ野球経験者の間では「左のイチロー、右の落合」と言われている。
  • 高校時代野球部を退部した後放課後は毎日のように映画館に入り浸る日々が継続した。自著では高校時代を通じて100本以上の映画を見たと記している。野球馬鹿にならずに済んだとも回想している[2]
  • 愛甲猛との自主トレーニングの際に落合の叱責に愛甲がたまりかね、「俺も甲子園優勝投手ですよ」と反論すると、「ここはプロなんだ、そんなに甲子園がいいんなら甲子園へ帰ればいいだろ。そんな気持ちでトレーニングするなら止めたほうがいい」とまで突き放した事があったという[3]
  • 現役時代のヒーローインタビューは独特の秋田訛りがかったとぼけたような口調で核心を交わすのが特徴であった。また感情を露にする事も少なく派手なパフォーマンスも見られなかったが、2006年の中日ドラゴンズ優勝決定の際にはベンチ前で大きくガッツポーズをし、優勝監督インタビューでも大粒の涙を流し、「監督の私が一番泣いた」と発言するなど現役時代とは様変わりした姿を見せた。
  • 現役時代タイトル争いがかかる終盤で打ちまくったため“帳尻合わせ“と揶揄される事もあったが解説者転向後に一転して「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい。」と発言し話題になった。
  • 日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、自分も王さんも違うと語っている。
  • 2000年時点で自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけだ」(どちらも当時、日本プロ野球界唯一の記録)と言っていた。(2年連続50本塁打以上は2002・2003年にアレックス・カブレラも達成した。)
  • 中日ドラゴンズ監督になってからは「(プロ野球球団は)勝つことが最大のファンサービスである」と口にしている。

監督としての落合

  • 2004年に中日ドラゴンズの監督に就任。「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、大きな話題を呼んだ。また秋季キャンプからシーズンにかけても、さまざまな手を打ち、内外の関心を集めた。
    • コーチ就任が一度は内定しながら、チーム内のゴタゴタから現役続行を訴えて巨人を退団した川相昌弘を入団させ、若手に野球に対する姿勢を学ばせた。川相獲得が実際にこの年行った唯一の人的補強である。
    • 故障のため3年間に一度も一軍の登板機会のない川崎憲次郎開幕投手に指名し、チームの結束と奮起を促した。
    • 中継ぎエースの落合英二をシーズン終盤の優勝マジック点灯後の大事な時期に先発させた。
    • 森章剛をシーズン途中にスイッチヒッターに転向させた。
    • 井端弘和にカウントノースリーから打たせてホームランにしてしまう。
    • 「右対右は不利」のセオリーに反して右打ちの高橋光信代打として送り、勝ち越しの四球を選ばせる。
  • 結果として選手が大活躍するような「オレ流野球」が炸裂し、同年10月1日にリーグ優勝。監督就任1年目にして初の胴上げとなった(2002年の巨人監督・原辰徳以来2年ぶり)。さらに、ナゴヤドームでの初めての優勝決定となった。
  • しかし、その後同年10月16日から行われた日本シリーズでは、第2戦終了後の自身の勝利監督インタビューでの失言とも受け取れる発言(「もうナゴヤには戻って来ないかもしれません」吉村功参照)や、第3戦での継投ミスなどに足元をすくわれ、中日球団の50年ぶりの日本一を、王手をかけながら、本拠地ナゴヤドームで逃した(日本一は西武ライオンズ)。
  • 監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けてはこの凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズタイロン・ウッズを獲得する一方、関川浩一酒井忠晴小山伸一郎紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
  • その2005年シーズンは開幕ダッシュに成功したものの、交流戦に大きく負け越す。夏場にかけて首位阪神を猛追したが2位に終わり、連覇はならなかった。
  • 監督としては滅多に選手個人を責めることがなく、少なくともマスコミにはそのようなコメントはほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている彼らしい配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になってしまうこともある。
  • 就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなった。
  • また、現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。12球団一といわれる荒木雅博井端弘和の二遊間は、自身もロッテ時代に河野旭輝のノックを受けて守備技術を学んだ経験を持つ落合のノックで鍛えられたことによるものといわれる。井端も「あんな凄いノックは今まで受けたことが無い」と語っている。ノックについては「守る事はもちろん、ノッカーとして打つ事でも、守備技術や打撃技術の向上に役立つ」との持論を有し、打撃フォームが崩れている選手にノッカーをさせて矯正を図るという方法も試みている。 高木守道もこの矯正法に賛同している。
  • 采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。
  • 2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
  • 2006年9月20日横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
  • 2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまうという意外な一面もみせた。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段はホームランを打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、一番最初に泣いたのは私でした」、「1位で走ってる球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
  • 2006年の日本シリーズでは、落合や選手達も満を持してシリーズに臨んだ。しかし結果は1勝4敗。初戦は取ったが、第2戦での山本昌からの継投ミスや再三のバント失敗などの拙攻により日本ハムに息を吹き返され4連敗し、ドラゴンズの半世紀ぶりの日本一をまたも逃した。
  • 週刊新潮の2006年11月9日号によるとスズキ自動車鈴木修はドラゴンズの応援をやめたとされる。日米経済界から手腕を認められるこの大物は広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合さんは違うようです」とコメントしている。浜松の河合楽器製作所の硬式野球部(2001年に休部)出身者の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られる鈴木会長は、同時に現実主義者でもあり落合が財界や有力者への挨拶を嫌い周囲の反発を招いた事を批判したものとされる。地方球団としてのあり方について落合にも一言あるのかも知れないが、「ジジ転がし」の達人とされた星野以降は減収が続く球団では営業部の落合批判は公然とされていると記事はまとめている。
  • 2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開している。そんな落合いわく、「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。
  • 契約期間の3年間において、リーグ優勝2回、2位1回という監督手腕が評価され、引き続き2007年も中日の指揮を執ることが球団側から要請され、了承。10月30日、向こう2年間、監督を務めるという内容で契約が延長された。
  • 2007年にオリックス・バファローズとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、育成選手(後に支配下登録)として獲得した。
  • だが同年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させる事を決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断した事と、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいという事を理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約する事を決めた。だが選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれにひるむ事無く真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやった事だ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。
  • 2007年5月1日、セ・リーグの豊蔵一会長は、金本のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが落合は「正規のルールに従ってやっている事なのに、何故そういう事になるのか」と激怒。球団に全て任せるとしているが、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受けた。
  • 2007年10月4日、公式戦最後の地元ナゴヤドームでの試合に先立ち、長男福嗣との約束であり、中日ドラゴンズファンへの公約でもあった「2年連続セントラルリーグ優勝」を果たせなかったとして、ドラゴンズファンへのお詫びの気持ちとクライマックスシリーズを勝ち抜く決意を込めて頭髪を丸刈りにした
  • 2007年11月1日北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズ第5戦で先発した山井大介が8回表まで完全試合を続けていたが、1-0という僅少得点差で迎えた最終回9回表、躊躇することなく山井から岩瀬仁紀に投手交代を行った。試合は岩瀬がファイターズの攻撃を三者凡退で退け、中日ドラゴンズが日本一を達成し、山井と岩瀬によるリレーという形で完全試合を達成した。この落合采配に対しては野球関係者や識者、また多くの野球ファンから賛否両論の意見[4]が寄せられたが、この件について落合自身は、「私は山井に続投を打診したが、山井が指の肉刺(まめ)を潰したので、自分から交代を申し出て来た。だから代えたのだ」とテレビのインタビューや新聞の取材などで交代劇の真相を語った[5]。また、翌日の新聞では「自分だって完全試合は見たかった。ただ、本人が無理だと言っているのに投げさせられない」と告白し、山井が右肩痛で2年半を棒に振っていたことを挙げ、「もし無理して投げ続けて、(故障が)再発したら彼は壊れてしまう。周りはそういう責任を感じていない」とも語っている[5]

略歴

  • 身長・体重:178cm・80kg
  • 投打:右投右打
  • 出身地:秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市
  • 血液型:O型
  • 球歴・入団経緯:秋田工高 - 東洋大(中退) - 東芝府中 - ロッテ(1979年 - 1986年) - 中日(1987年 - 1993年) - 巨人(1994年 - 1996年) - 日本ハム(1997年 - 1998年) - テレビ朝日・KBC野球解説 - 評論家・横浜臨時コーチ - 中日監督(2004年 - ) 
  • FA行使:1993年(1回目・行使移籍)
  • プロ入り年度・ドラフト順位:1978年(3位)
  • 英語表記:OCHIAI
  • 推定年俸:1億5000万円(2007年)
  • 守備位置:一塁、二塁、三塁

タイトル・表彰・記録

  • MVP 2回(1982年、1985年)
  • 三冠王 3回(1982年、1985年、1986年) ※史上最多。
  • 首位打者 5回(1981年~1983年、1985年、1986年)
  • 本塁打王 5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)
  • 打点王 5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)
  • 最多勝利打点 3回(1982年、1985年、1988年)
  • 最高出塁率 7回(1982年、1985年~1988年、1990年、1991年)
  • ベストナイン 10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年~1986年、1989年=三塁手
  • 月間MVP 6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
  • シーズン打率3割以上11回(1981年~1987年、1989年、1991年、1995年、1996年) ※歴代5位タイ。
  • シーズン打率.367(1985年) ※右打者の日本人歴代最高打率。
  • シーズン52本塁打(1985年) ※日本人歴代最多タイ記録。
  • シーズン146打点(1985年) ※パ・リーグ記録。
  • シーズン長打率.763(1985年) ※パ・リーグ記録。
  • シーズン118得点(1985年) ※右打者のパ・リーグ記録。
  • シーズン351塁打(1985年) ※右打者のパ・リーグ記録。
  • 1試合6四球(1991年10月13日) ※日本記録。
  • 17年連続シーズン100安打以上(1981年~1997年)
  • 5試合連続本塁打(1989年10月10日~10月14日)
  • 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年~1986年) ※史上初。
  • 通算長打率.564(1979年~1998年) ※歴代3位。
  • オールスター出場 15回(1981年~1991年、1993年、1995年~1997年)
  • オールスターMVP 2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
  • オールスター通算打率.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
  • オールスター通算本塁打11本 ※歴代4位。
  • オールスター通算打点27 ※歴代3位タイ。

年度別打撃成績

年度































1979

6 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 1 12 2 1 .234 .290 .406
1980 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 1 23 5 5 .283 .349 .596
1981 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 6 55 17 9 .326 .423 .619
1982 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 5 58 11 7 .325 .428 .606
1983 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 2 52 14 7 .332 .419 .563
1984 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 4 33 14 16 .314 .436 .581
1985 130 568 460 118 169 21 1 52 351 146 5 1 0 4 101 3 40 16 19 .367 .481 .763
1986 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 3 59 15 10 .360 .487 .746
1987
125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 2 51 10 9 .331 .435 .602
1988 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 3 70 11 10 .293 .418 .580
1989 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 1 69 11 6 .321 .410 .626
1990 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 4 87 7 7 .290 .416 .559
1991 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 4 55 9 5 .340 .473 .682
1992 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 3 74 12 3 .292 .425 .526
1993 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 4 69 13 4 .285 .423 .462
1994
60 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 6 56 13 8 .280 .393 .423
1995 6 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 3 87 17 5 .311 .414 .481
1996 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 53 11 6 .301 .408 .516
1997 日本
ハム
3 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 3 60 16 3 .262 .361 .320
1998 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 2 22 12 0 .235 .344 .309
通算成績 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 63 1135 236 140 .311 .422 .564

太字はリーグトップ。

通算打撃成績歴代順位

監督としてのチーム成績

リーグ公式戦

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
得点
チーム
失点
チーム
防御率
年齢
2004年 平成16年 中日 1位 138 79 56 3 .585 (7.5) 111 .274 623 558 3.86 50歳
2005年 平成17年 2位 146 79 66 1 .545 10 139 .269 680 628 4.13 51歳
2006年 平成18年 1位 146 87 54 5 .617 (3.5) 139 .270 669 496 3.10 52歳
2007年 平成19年 2位 144 78 64 2 .549 1.5 121 .261 623 556 3.59 53歳
※1 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
※2 2005年から2006年までは146試合制
※3 2007年から144試合制
※4 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
※5 順位の太字は日本シリーズ優勝

ポストシーズン

年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2004年 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗
2006年 日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 1勝4敗
2007年 セ・リーグクライマックスシリーズ
1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ3位) 2勝0敗
セ・リーグクライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 3勝0敗
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 4勝1敗

背番号

著書

CM出演

ディスコグラフィー

  • サムライ街道/そんなふたりのラブソング(1986年)「そんなふたりの…」は信子夫人とデュエット
  • 男のララバイ(1987年)
  • めぐり逢い(1989年12月22日)
  • 恋の広小路(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
  • 落涙(1991年12月24日)
  • 縁歌酒(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
  • 息子へ(1993年1月8日)
  • 夜明川(1994年1月15日)
  • 涙 渇くまで(1996年2月21日)林るり子とデュエット
  • 抱かれて乾杯(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
  • 霧の別れ(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
  • サムライ街道/男のララバイ(2004年2月11日)
  • 旅路のひと

脚注

  1. ^ 玉木正之 『プロ野球大大大事典―決定版!!読むプロ野球』(東都書房 1986年3月)
  2. ^ 落合博満 『何と言われようとオレ流さ』 講談社 1986年4月
  3. ^ 永谷脩 『プロ野球の名選手』(芳文社 1992年6月)
  4. ^ 「(山井の)完全試合を見たかった」「プロなら多くの野球ファンを楽しませるべきだ」という批判が浴びせられた一方、中日が53年ぶりとなる日本一を地元で決める重要性と、落合監督として過去2度あと一歩のところで日本一を逃していることに対し、「勝利にこだわる英断」、「完全試合も見たかったが、地元での日本一はそれより優先」とする賛同や肯定の意見も多く上がった。
  5. ^ a b 落合監督激白「完全試合オレだって見たかった」(『中日スポーツ』 2007年11月3日付)

関連項目

外部リンク

先代:
L.リー
ブーマー
パ・リーグ首位打者
1981年1983年
1985年1986年
次代:
ブーマー
新井宏昌
先代:
江夏豊
ブーマー
パ・リーグMVP
1982年
1985年
次代:
東尾修
石毛宏典
先代:
門田博光T.ソレイタ
ブーマー
パ・リーグ本塁打王
1982年
1985年~1986年
次代:
門田博光
秋山幸二
先代:
T.ソレイタ
ブーマー
パ・リーグ打点王
1982年
1985年~1986年
次代:
水谷実雄
ブーマー
先代:
門田博光
スティーブ.O
パ・リーグ最高出塁率
1982年
1985年~1986年
次代:
スティーブ.O
門田博光
先代:
T.ソレイタ
ブーマー
パ・リーグ最多勝利打点
1982年
1985年※
次代:
スティーブ.O
P.パットナム
先代:
R.バース
W.クロマティ
セ・リーグ最高出塁率
1987年1988年
1990年1991年
次代:
W.クロマティ
T.オマリー
先代:
小早川毅彦
広沢克己,J.パチョレック
セ・リーグ最多勝利打点
1988年~1989年
1993年
次代:
広沢克己
R.ローズ
先代:
C.ポンセ
セ・リーグ打点王
1989年~1990年
次代:
広沢克己
先代:
L.パリッシュ
セ・リーグ本塁打王
1990年~1991年
次代:
J.ハウエル
先代:
大久保博元
読売ジャイアンツ4番打者
第60代
次代:
広沢克
先代:
大島康徳
1992年1994年
現役最年長プロ野球選手
1995年1998年
次代:
山本和範
1999年
先代:
佐々木恭介
2003年途中~終了)
中日ドラゴンズ
監督
2004年~)
次代:
-
先代:
王貞治
正力松太郎賞
2007年
次代:
-
※1985年のパ・リーグ最多勝利打点は秋山幸二R.デービス古屋英夫と同数。
※カッコ内は監督在任期間。
ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)
1978年ドラフト指名選手
1位:福間納 / 2位:菊地恭一 / 3位:落合博満 / 4位:武藤信二
ウィキペディアでの『落合博満』の改訂履歴
Text is available under GNU Free Documentation License

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