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読売ジャイアンツ

について
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(最終更新 2007年11月21日 (水) 12:31。)

読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants, 読売巨人軍)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。東京都保護地域とし、都内文京区にある東京ドーム専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は神奈川県川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場である。

日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。 本拠地以外の主催試合に関しては、読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧を参照。本拠地以外の主催試合(オープン戦)に関しては、読売ジャイアンツ主催のオープン戦使用球場一覧を参照。


読売ジャイアンツ
チーム名 読売ジャイアンツ
会社名 株式会社読売巨人軍
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍)
創設年度 1934年(1軍)、1949年(2軍)
チーム名の遍歴 (1軍)
大日本東京野球倶楽部(1934年
→東京巨人軍(1935年 - 1946年
→読売ジャイアンツ(1947年 - )
(2軍)
読売ジャイアンツ(1949年 - 1953年
→読売ジュニアジャイアンツ(1954年 - 1955年
→(リーグ中断のため不明)
→読売ジャイアンツ(1961年 - )
フランチャイズの遍歴 東京都1952年 - )
本拠地 1軍:東京ドーム 2軍:読売ジャイアンツ球場
収容人員 45,600人(東京ドーム)
オーナー 滝鼻卓雄
親会社 読売新聞グループ本社
監督 原辰徳
タイトル リーグ戦:40回
日本シリーズ:20回
優勝年度 (リーグ戦)
1936秋、1937春、1938秋、1939、1940、
1941、1942、1943、1949、1951、
1952、1953、1955、1956、1957、
1958、1959、1961、1963、1965、
1966、1967、1968、1969、1970、
1971、1972、1973、1976、1977、
1981、1983、1987、1989、1990、
1994、1996、2000、2002、2007
(日本シリーズ)
1951、1952、1953、1955、1961、
1963、1965、1966、1967、1968、
1969、1970、1971、1972、1973、
1981、1989、1994、2000、2002
プレーオフ 1回 - 0勝1敗(太字は勝利した年)
2007
東京ドーム(1988年より本拠地)
東京ドーム(1988年より本拠地)

目次

球団の歴史

誕生

1931年読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ戦抜軍の招待、特に前回かなわなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[1]が、そこに1つの問題が発生した。1932年文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった[2]

市岡忠男浅沼誉夫三宅大輔鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[3]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[4]

1934年10月15日千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[5]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ戦抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[6])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。

1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。結成当初の対外試合も参照のこと。

1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。

戦前期

1936年には正力の働きかけもあって国内には巨人も含めて7チームの職業野球団が結成され、「日本職業野球連盟」も結成されていた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市茂林寺分福球場で緊急キャンプを張った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガースに並ばれる。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。1939年には2度のマニラ遠征を行った。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたスタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても太平洋戦争による影響は避けがたく、召集によって中心選手の離脱も相次いだほか、1940年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。

なお、1937年1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と1938年秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウントされている。ただし2年とも年間総合優勝決定戦で大阪タイガースに敗れたため日本一は逃している。

戦後期

1946年のリーグ戦再開より参加。1947年には読売新聞社が経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治千葉茂青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日黒沢俊夫が死去、戦死した沢村とともにその背番号は日本プロ野球界初の永久欠番となった。

詳細はプロ野球再編問題 (1949年)を参照

1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、のちにセントラル・リーグを結成するチームが反対。このことがきっかけとなり、読売ジャイアンツ・阪神タイガース・中日ドラゴンズ松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ大映スターズ毎日オリオンズ西鉄クリッパース近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

水原監督時代

1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌1951年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海を3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。1952年8月8日、広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝を達成。1000勝時点の通算成績は1000勝518敗38分、勝率.659。1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位独走優勝は球団史上唯一の記録である。

1954年の2位を挟んで、1955年から1959年まではセ・リーグ5連覇。しかし1956年1957年1958年の日本シリーズでは、水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに敗退して日本シリーズ4連敗。1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許し、水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長嶋は1年目から本塁打・打点の二冠、打率2位と活躍した。

1959年6月25日の阪神11回戦はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)長嶋のこの日2本目となるサヨナラホームランで勝利を収めた。

詳細は天覧試合を参照

川上監督時代

1961年川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし1962年にはこの年から一本足打法を始めた王貞治が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分裂後初めてのBクラスに終わる。1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではそれまで勝つことのできなかった西鉄を初めて破り日本一になる。

1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、1964年は王貞治がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3・4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、1965年には金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍するなど1965年からの日本シリーズ9連覇へと続く素地が作られていく。

詳細はV9 (読売ジャイアンツ)を参照

1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。

1965年7月25日、中日11回戦の勝利で公式戦通算2000勝を達成、勝利投手は宮田征典、勝ち越した後の8.9回をリリーフしての勝利でありこの年に巨人首脳陣が時代に先駆けて行った投手分業制に従事した中であげた1勝だった。これ以来、宮田は8時半の男として一躍注目を集めることとなる。

この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的であった。王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄堀内恒夫高橋一三渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手、土井正三黒江透修内野手、柴田勲末次利光高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。

V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。

第1次長嶋監督時代

1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島の胴上げを本拠地・後楽園で許した。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし、日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。

1978年オフ、当時法政大学江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。

1979年、伝説の伊東キャンプが行なわれ、松本(匡)、中畑、篠塚などが急速に力を着ける。

1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫すると、同年オフ長嶋監督がチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任。しかし、これは読売新聞幹部による事実上の解任でありこの一連の事件に激怒した一部の熱狂的ファンが巨人ファンをやめてしまったり、読売新聞・報知新聞スポーツ報知)の不買運動を展開するなど社会問題にまで発展[7]。また王も現役を引退。

TVアニメ「新巨人の星」の舞台になっている。

藤田・王監督時代

1981年藤田元司が監督に就任。藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が誕生。江川卓西本聖定岡正二、加藤初ら先発4本柱で投手王国を形成し(江川20勝・西本18勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇、8年ぶりの日本一を達成する。なお、この年、江川は史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者もルーキーの原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神・藤田と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。 1982年にも0.5ゲーム差の2位となっている(大洋・長崎と中日・田尾の首位打者争いのために中日対大洋の最終戦が捨てゲームになったことは物議をかもした)。1983年にも、松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れる。このときの日本シリーズは、サヨナラ勝ちが3度あり、日本シリーズ屈指の名勝負と言われている。 なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった[8]

その後1984年から1988年までの5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章ウォーレン・クロマティのリタイアが響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王監督は責任を取りこの年限りで辞任。

1989年、藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱を中心に投手王国を形成し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。同年の日本シリーズでは近鉄に3連敗から4連勝し、逆転で17回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述べている。

1990年、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2位広島とのゲーム差が22という圧倒的な強さで2年連続のリーグ優勝を果たす。しかし、雪辱を期して望んだ西武相手の日本シリーズでは、一転して先発投手陣が崩壊、攻守共に精彩を欠き0勝4敗で惨敗し、雪辱は成らなかった。1991年は、投手陣の不調と打撃不振が響き、1979年以来12年ぶりのBクラス(4位)。1992年は序盤の不調が響き、ヤクルト・阪神・広島との接戦の結果、最終的に2位となるも2年連続のV逸。この年限りで藤田は監督を勇退。

第2次長嶋監督時代

1993年、長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。この松井がこの後、1990年代から2000年代前期にかけてのチームの顔としても、打撃の中心としても、精神的支柱としても果たした。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を感じた駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。

1994年、前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦(ナゴヤ球場)、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己斎藤雅樹桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。その後の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を破り18回目の日本一に輝く。

1995年は近鉄の阿波野秀幸香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエルミネソタ・ツインズシェーン・マックを獲得したものの3位に低迷。逆転優勝を目指して長嶋監督が言った言葉「メークドラマ」は選手の奮起を促した。同年の最終戦で原が現役を引退。巨人一筋15年の現役生活にピリオドを打つ。

1996年、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。同年のオリックスとの日本シリーズでは3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。

1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビ、「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団。

1998年は前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにバルビーノ・ガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治二岡智宏が入団。

1999年村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、途中獲得したドミンゴ・マルティネスの活躍もあり2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。

2000年は、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝を決めた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。

2001年は正捕手候補として阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争い2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。それと同時に三本柱の槙原寛己斎藤雅樹両投手そして三本柱を支えた村田真一捕手が引退した。監督の後任は、原ヘッドコーチ。

第1次原・堀内監督時代

2002年原辰徳監督が就任。原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を建て直し、1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝で20回目の日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。

2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した。辞任に関して、人気のある原監督と渡邉恒雄オーナー(当時)との確執がマスメディアに報じられ、それに失望し巨人ファンが離れる要因となった。この混乱が原因で川相昌弘が中日に行ってしまう。

2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本であった)を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。

2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由伸二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」で成績不振に陥り下位に低迷、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また原監督辞任騒動から巨人人気が一気に落ちた影響もあり、それに伴って観客数や視聴率も低下した。そのため親会社の日本テレビでも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。

第2次原監督時代

第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(同)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。

2006年はチーム方針として2005年にワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初のベストメンバーを組めていた時期には首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストを経て獲得、広島の木村拓也を交換トレードで獲得、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを獲得するなど建て直しを図ったが、結果として最も戦力不足に悩まされた6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。

この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁コーチャーとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAで、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。

2007年5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初めてとなる球団通算5000勝を達成した。また2軍も5月29日のヤクルト戦でイースタンリーグ史上初の通算2000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からストッパーとして起用するなどの大胆な配置転換を行ったがこれが大成功。昨年とはうってかわって大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデットヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、直後の宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。だが、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負けを喫し、最初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となってしまった(パ・リーグはリーグ優勝の日本ハムが進出している)。このため恒例の銀座での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はもちろんこれが初である)。また、2軍も9月21日のヤクルト戦に勝利しイースタンリーグ優勝を飾ったが、9月29日に行われたファーム日本選手権では中日に2-7で敗れ、こちらもファーム日本一はならなかった。

チーム成績・記録

  • チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
  • 特に断りのない場合は2006年シーズンまでの数値。

試合、勝敗、勝率に関する記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • 優勝 40回(日本プロ野球記録)
    • (1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年)
  • 日本一 20回(日本プロ野球記録)
    • (1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年)
  • 連続優勝最長記録 9年(日本プロ野球記録)
    • (1965年 - 1973年)
  • Aクラス 64回
    • (1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年)
  • Bクラス 8回
    • (1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
  • 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
  • シーズン最多勝利 92勝(1955年)
  • シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)
  • シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
  • シーズン最多連敗 11連敗(1975年9月4日 - 11日)
  • シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
  • シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
  • シーズン最低勝率 .382(1975年)
  • 通算試合 8748試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7527試合)
  • 通算勝利 4982勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降4199勝)
  • 通算敗戦 3503敗(2リーグ制以降3093敗)
  • 通算引分 263引き分け(2リーグ制以降235引き分け)
  • 通算勝率 .587(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.576)
  • 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
  • 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
  • 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広島東洋カープ)
  • 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)

チーム打撃記録

  • 通算本塁打 8402本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降7829本)
  • シーズン最多得点 738得点(2004年)
  • シーズン最多安打 1332本(2004年)
  • シーズン最多2塁打 221本(1953年)
  • シーズン最多3塁打 57本(1946年)
  • シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
  • シーズン最多打点 719打点(2004年)
  • シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
  • シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
  • シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
  • シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多三振 1083三振(2004年)
  • シーズン最高打率 .292(1952年)
  • シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
  • ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
  • ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
  • ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
  • ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
  • ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
  • ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
  • イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
  • イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
  • イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
  • イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
  • イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
  • イニング最多犠打 3犠打(多数)
  • イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
  • イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
  • イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
  • 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
  • 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
  • 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
  • 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
  • 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
  • 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
  • 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
  • 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
  • 最多連続本塁打 3人(通算5度)
  • 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
  • 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
  • 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)

チーム投手記録

  • シーズン最多被安打 1427本(2005年)
  • シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
  • シーズン最多与四死球 529個(1978年)
  • シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
  • シーズン最多失点 737点(2005年)
  • シーズン最高防御率 1.38(1943年)
  • シーズン最低防御率 4.80(2005年)
  • ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
  • ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
  • ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
  • ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
  • イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
  • イニング最多被本塁打 3本(多数)
  • イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
  • イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
  • イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
  • 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
  • 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
  • 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)

チームの特徴

球団名

  • ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツから取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
    • 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。

「巨人」について

戦前からの長きに渡り、「ジャイアンツ」を日本語に意訳(Giants = 巨人+複数形のsを軍)した愛称「巨人軍」が用いられてきている。現在も、球団の運営会社は「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に「巨人軍」を用いている。野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。読売グループのみならずすべてのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、ドラフト会議においては「読売」と称されている。例えば自軍主催試合ではチケットの印字など他球団の表記も略称を使っている場合には「巨人」と表記され、場内アナウンスなど他球団でも球団呼称を使用する場合には「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします。」などのように使用されている。したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。なお、読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「きょ」に置かれる。

ユニフォームの変遷

  • 1935年 球団創立(大日本東京野球倶楽部)時の第一次米国遠征では、背番号を漢数字にしたユニホームが使われた。左胸には「日の丸」をあしらったマークで「TOKYO」の文字が入り、右袖に(背)番号、左袖に漢字で「日本」と入る。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークはオレンジで「T」。
  • 1936年 - 1937年 球団名が「東京ジャイアンツ」になり、第二次米国遠征。背番号は普通のアラビア数字に、胸のレターが花文字(一般に早稲田型ロゴという)で上に「TOKYO」下に「GIANTS」の2段組になっている。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークは金糸で「G」。帰国後は白地で胸に黒で「GIANTS」、帽子は白に濃紺のつばに黒の「G」マーク。グレー地で同じ物が作られ、これを着用するときは帽子は濃紺色、「G」マークは赤に白を縁取った七宝焼きで出来ていた。どちらも袖に黒のダブルライン、パンツはシングルのサイドラインになっている。
  • 1938年 - 1940年 白いユニフォームをマイナーチェンジし、パンツのサイドラインをダブルに変更。このユニフォームが戦後V9を達成したときのユニフォームの原型となる。
  • 1941年 太平洋戦争勃発の年、軍事色が濃くなりユニフォームの胸のレターも「GIANTS」から漢字の「」に変更された。白地とグレー地の二種類があり、帽子のマークも「巨」、国防色の戦闘帽タイプも作られた。
  • 1945年 - 1947年 白地に胸にエンジ色と黒で「GIANTS」(文字の形が稚拙で、背番号もバランスが悪かった)と入った二種類のユニフォームが作られ、左袖には読売新聞社の当時の社章が付いた。
  • 1947年 - 1949年 やっと戦前のユニフォームに近いスタイルに戻る。1936年 - 1937年に使用されたユニフォームに近いが、パンツのサイドラインがダブルになっている。白地とグレー地があるがグレー地のパンツには腰のところに(背)番号が入る。
  • 1950年 日本で初めて野球ユニホームにラグランスリーブを採用する(ちなみにこのラグランスリーブのユニホームを製作したのは、スポーツ用品店でなく、『銀座テーラー』という老舗の紳士服専門店であった)。
  • 1951年 - 1952年 白地に胸のロゴ、背番号とも赤色の派手な、子供受けを狙ったデザインが使用される。1951年途中から戦後から続いていた前立てラインが消えシンプルになった。ビジター用の左袖に初めて「TOKYO」の文字が入る。
  • 1953年ニューヨーク・ジャイアンツを真似てチームカラーをオレンジと黒とし、胸のロゴも今までの花文字からアメリカ型ロゴに変わったが、このユニフォームはウィルソン社製のもの(戦前、第二次米国遠征に使用した二段組みの「TOKYO GIANTS」の胸ロゴが入ったものも作られた)だけで、日本社製のものは従来の花文字が使用された。この年からビジター用の胸に「TOKYO」のロゴが入り、左袖に「GIANTS」と入ったユニフォームがお目見えした。ちなみにホーム、ビジター両方とも白地だった。翌年にはYGマークも登場した。
  • 1960年はカラーテレビ用として、帽子のつば、胸のロゴ、背番号の3箇所が赤いユニフォームが使用された。またこのユニフォームより胸ロゴの下に胸番号が付いた。
  • 1961年 - 1974年 黒とオレンジの組み合わせに戻り、ホーム用がアイボリー地、ビジター用がブルーグレーになり、首、パンツに黒とオレンジのダブルのラインが入る。また首、ベルトループに黒とオレンジのラインが入り、川上哲治監督率いるV9に象徴される常勝巨人のシンボルとなる。長嶋茂雄引退、川上哲治監督勇退の1974年まで使用された。このユニフォーム(のデザイン)は一番寿命が長かった(14年間使用された)ので、途中より生地素材が変更されている。1972年あたりより伸縮性の良いニット生地に切り替わっている。
  • 1975年 - 1980年 長嶋茂雄監督就任に伴い、「GIANTS」「TOKYO」(胸ロゴ。左袖ロゴ)の書体がサンフランシスコ・ジャイアンツと同タイプのものになり、胸番号、背番号の書体も変わる。さらに首のライン、両袖およびパンツのラインがシングルになり太くなる。
    • 1976年より、ホーム用の左袖の「TOKYO」ロゴが「YOMIURI」に変わり、背番号の上に選手名が入る。
  • 1981年 - 1992年 藤田元司監督就任に伴い、V9時代のタイプに戻る。マイナーチェンジを繰り返し、基本デザインは1992年まで使用された。この間に1981年1983年1987年1989年1990年と5度のリーグ優勝を果たした。
    • 1986年より、ボタン式からプルオーバー式のVネックになる。
    • 1990年より、ホーム用がアイボリー地からオフホワイト地に変わる。
  • 1993年 - 2005年 長嶋茂雄監督復帰により、モデルチェンジ。プルオーバー式からボタン式に戻り、首元から胸にかけてのラケットラインが入り、ベルトループのラインが消える。また、ビジター用がグレー地に変更され、黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更される。
    • 2001年、ホームゲーム3連戦の2日目に選手名を外す「バックナンバーデーユニフォーム」を採用。
    • 2002年 - 2004年 オープン戦や公式戦の試合前の練習用に限定したセカンドユニフォームをホーム、ビジター共に2004年まで使用。さらに2002年7月1日より、読売グループの組織変更に伴い、球団を運営する社名が株式会社読売巨人軍となった為、ビジター用の胸ロゴが「TOKYO」から「YOMIURI」に変わり、胸番号、背番号の書体が丸ゴシック体に変わる。
    • 2005年、ビジター用の胸ロゴが「YOMIURI」から、帽子と同一のYGマークが左胸につき、胸番号は右腹部に移る。
  • 2006年 - 原辰徳監督復帰に伴い、1975年以来31年続いたデサント社製からアディダス社製になる。同時にデザイン変更。ホーム、ビジター共パンツにアディダスの3本線、右胸にアディダスのブランドロゴが入り、細めのストライプシャドーが入る。胸ロゴが早稲田書体から変更になり、同時に選手名の書体も変わり。背番号の大きさがやや小ぶりになる。また帽子のツバのふちがオレンジ色になる。
    • ホーム用は、基本的にデザインは変わらない。
    • ビジター用は、上着が黒、パンツが灰色になり、ビジター用の胸ロゴも「GIANTS」となり、胸ロゴ、胸番号、背番号がグレーに白の縁取りとなる。

マスコット

  • 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。
  • 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたり使用された。
  • 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。また、「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([1]を参照)。
  • 2006年からエンブレムが変更、「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。

その他

  • 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(球団創立時の初代監督:藤本定義はプロ選手の経験がないので他球団OBではなく、巨人軍生え抜き扱いになる)。

ユニフォーム等のスポンサー

  • ユニフォーム袖(2軍限定) - コナミ
  • 公式戦主催ホームゲームは全試合を「伊藤ハムシリーズ」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げている。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。(1986年までは明治製菓がそれを担当し、「Meijiチョコレート」などの看板を掲げており、チケットや後楽園球場のバックネット裏の看板にも「明治スイートシリーズ」と銘打たれた公式戦であった)

歴代本拠地

歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここから東京巨人軍
※2 ここから読売ジャイアンツ
※3 1949年は4月15日まで指揮、7月23日に復帰するまでは中島治康が代行

永久欠番

  • 1王貞治(1989年 - )
    • 本塁打世界新記録(868本)の功績を称え、決定。
  • 3長嶋茂雄(1974年 - )
    • 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。
  • 4黒沢俊夫(1947年 - )
    • 現役中に腸チフスで死去。球界初の永久欠番。
  • 14沢村栄治(1947年 - )
  • 16川上哲治(1965年 - )
    • 引退後もつけていたが、背番号を77に変更したことを機に決定。
  • 34金田正一(1970年 - )

尚、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームを模った(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた。王に至っては福岡ソフトバンクホークス監督で現場を離れられないと言う事で次女の王理恵が代理出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。

2007年現在、期間限定で、現在のホームユニフォームをアレンジした形で、ジャイアンツの公式ホームページの通販コーナーで予約発売している。

完全試合・ノーヒットノーラン達成者

読売ジャイアンツでは球団史上2人の投手がこれまでに完全試合を、9人の投手が延べ12回ノーヒットノーランを達成している。

完全試合達成投手

年月日 選手名 スコア 相手 球場
1950/06/28 藤本英雄 4-0 西日本 青森
1994/05/18 槙原寛己 6-0 広島 福岡ドーム

ノーヒットノーラン達成投手

年月日 選手名 スコア 相手 球場
1936/09/25 沢村栄治 1-0 タイガース 甲子園
1937/05/01 沢村栄治 4-0 タイガース 洲崎
1937/07/03 ヴィクトル・スタルヒン 4-0 イーグルス 洲崎
1939/11/03 中尾輝三 1-0 セネタース 後楽園
1940/07/06 沢村栄治 4-0 名古屋金鯱 西宮
1941/07/16 中尾輝三 3-0 名古屋金鯱 後楽園
1943/05/22 藤本英雄 3-0 名古屋 後楽園
1952/07/26 大友工 17-0 松竹 大阪
1967/10/10 堀内恒夫 11-0 広島 後楽園
1968/05/16 城之内邦雄 16-0 大洋 後楽園
1970/05/18 渡辺秀武 2-0 広島 後楽園
1976/04/18 加藤初 5-0 広島 広島

参考記録

1971/09/06 菅原勝矢 4-0 ヤクルト 神宮

7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録

史上初のノーヒッター

ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍(当時)から誕生した。巨人軍の当時の豪腕投手だった沢村栄治1936年9月25日甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村は翌1937年5月1日洲崎で開かれた春季戦・タイガース戦、更に1940年7月6日西宮で開かれた名古屋戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎広島)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。

完全試合

日本プロ野球において完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツで完全試合を達成したのは2人である。

日本球界初の完全試合を決めたのは藤本英雄1950年6月28日青森球場で開かれた西日本との一戦で自身2度目(戦前の1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の大偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されないという何とも寂しい結果となった。

そして20世紀最後の完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった記念の試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、1978年今井雄太郎阪急)以来のパーフェクトを達成。現役引退後、TBS解説者として出演する際は「ミスターパーフェクト」として紹介されている。

奇しくも、藤本英雄、槙原寛己の両投手とも、完全試合達成時の背番号は、ともに「17」であった。

逆に、ジャイアンツが完全試合を達成されたことは70余年の球団史上一度もない。日本プロ野球で現存する12球団のうち、直系の前身球団を含めてもこの経験がないのは、ジャイアンツ以外では東京ヤクルトスワローズ東北楽天ゴールデンイーグルスの2球団しかない(なお、2004年まで存続した大阪近鉄バファローズも完全試合を許したことはない)。

歴代の球団歌・応援歌

読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。

  • 初代「巨人軍の歌(野球の王者)」1939年発表(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而
  • 2代目「巨人軍の歌」1949年発表(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
  • 3代目「巨人軍の歌(闘魂こめて)」1962年発表(作詞:椿三平、補作:西条八十、作曲:古関裕而)

曲名に関しては読売ジャイアンツ公式HPの年表に準じて巨人軍の歌で統一し、括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、阪神タイガースの応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も作っている。

本拠地東京ドームの最寄り駅であるJR水道橋駅では同駅の開業100周年を記念して2006年7月4日から、発車メロディに「闘魂こめて」を流すようになった。

出来事

結成当初の対外試合

チーム結成当初は、まだ職業野球のクラブチームがジャイアンツ1チームしか存在しなかった。その為1935年は上半期をアメリカ合衆国遠征、後半は日本国内の社会人チームとの対戦に割り当てて、長期間にわたる遠征をこなすことになった。

まず、アメリカ遠征。2月(まだこの時は「大日本東京野球倶楽部」)に当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。

この時、先発隊で渡米していた鈴木惣太郎マネジャーは「『大日本東京野球倶楽部』では長ったらしいから何か簡単な名前が思いつかないだろうか」と、現地マネジャーのフランク・オドールに相談する。すると「ジャイアンツとヤンキースのどちらかはどうだろう。アメリカではどちらも人気があるチームだから(ニューヨークのチーム)」と提案。鈴木は「ヤンキースは日本語で適当な言葉が見当たらない。ジャイアンツなら巨人。これならいけるだろう」ということでジャイアンツのチーム名はこうして決まった。

チームは2月27日(現地)にサンフランシスコ湾に到着し、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という超異例の過密日程を戦った。主な対戦相手は大リーグマイナークラスのチーム。最初は物珍しもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。それでも75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は無事終了した。このアメリカ遠征では日本独特の文化を出そうということで選手の背番号は漢数字(例えば沢村栄治だと十七=17)を使用した。ところが漢字文化のないアメリカ人にはさっぱり分からず、「あのプラス(+=10)とマイナス(-=1)は何を意味するんだ?」という疑問が後を絶たなかったといわれる。

選手らは帰国後夏休みを挟んで9月6日から今度は日本の社会人野球チームとの親善試合をこなすことになる。この国内巡業も原則的にはファン確保の名目で1日2試合のダブルヘッダー開催が多く、後座試合として巨人軍選手による紅白戦が開かれた。この国内巡業の試合は40試合行い36勝3敗1引き分け。圧倒的な実力を見せたが、社会人チームに3敗したことが響いたのか、三宅大輔監督は解任される。3敗のうちの2敗は東京鉄道局からであり、三宅解任後は同チームの監督をしていた藤本定義が後任として迎えられた。

職業野球連盟所属チーム同士の初対戦

1936年2月9日に、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った始めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。

提訴したためにV逸

第二次世界大戦が終わった翌年の1946年、日本プロ野球は1944年以来2年ぶりに公式戦を再開したが、兵役についていた選手たちが元の球団に復帰するかどうかでもめごとがあった。当時は「元いたチームが敗戦前に解散していれば元のチームに戻る必要はないが、元いたチームが敗戦後も解散せずかつチームから何らかの形で給与を受けていた場合は、敗戦前に所属していたチームに復帰しなければならない」という決まりがあった。

しかし巨人からはヴィクトル・スタルヒン白石勝巳が、阪神からも藤井勇が、球団の許可なくパシフィックへ入団してしまった。これによりパシフィックは連盟から問題が解決するまで3選手の出場を禁止するように言い渡されたが、藤本定義監督は3選手を5月下旬に行われた4試合に出場させてしまった。このことで巨人と阪神はパシフィックを提訴した。

提訴が受け入れられ、3選手が出場した4試合は全て0-9でパシフィックの敗戦となったが、パシフィックの実際の勝敗は1勝3敗であった。その1勝はこの年巨人と優勝争いをしていた近畿グレートリングから上げたものだったため、ライバルに1勝をプレゼントしてしまう結果となった。最終的に1ゲーム差でグレートリングが優勝し、同率でプレーオフとなるはずが提訴をしたために優勝を逃した。

日本シリーズ終了後にペナントレース

1955年、この年のペナントレースは大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ(ジャイアンツ優勝)、更にその後にも日米野球ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあってそれらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。

なおジャイアンツは以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。

  • 1937年秋季は10月27日東京セネタース戦がきっかけとなる。
    1-2とリードされた9回裏1死1・3塁のジャイアンツの攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。
    ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定した。
  • 1949年は2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。
  • 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日を持って打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
  • 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、更には日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。
  • 2004年はオリックス近鉄の合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合)がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。

史上初の2日またぎの試合

1961年9月7日に開かれた対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は3塁コーチャーズボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走る。この後ジャイアンツは土屋はラインアウトだったと主張し、一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が走塁妨害を主張、判定が覆ってホームインが認められることになり、両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、試合が再開されたのは24時前で、試合終了は結果的に9月8日の0:11となり史上初の2日間またぎの試合となった。

2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で1990年-2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。

V9決定日

  • 1973年10月22日阪神甲子園球場阪神タイガースと年度優勝をかけた最終戦が行われた。この直前の10月20日に巨人ナインは新幹線で大阪に移動している最中にナゴヤ球場で行われた中日ドラゴンズとの対戦を少し見て、勝機があると確信。
  • そしてこの試合で巨人は阪神ファンの罵声の飛ぶ中で9-0の快勝をし、日本プロ野球史上初の9連覇の偉業を決めたが、試合後阪神ファンが余りの不甲斐ない試合に大激怒。巨人ベンチに襲い掛かる始末となり、グラウンドで行われる予定の胴上げは中止。大阪での試合の宿舎だった芦屋市竹園旅館で胴上げをするという異例の展開となった。

後楽園シリーズ(1981年)

1981年の日本シリーズでは、大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズと対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦であり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に日本ハムが本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。 ちなみに第1戦の始球式は東京決戦にちなみ、当時の東京都知事・鈴木俊一が行なった。 ちなみに、両球団は同日にリーグ優勝。巨人の祝勝会のわずか55分後に日本ハムがの祝勝会が行われ、報道陣は大忙しだった。 なお、この時、球場に詰め掛けた巨人:日本ハムのファン比率は9:1で巨人が全戦ホームの状態だった。

疑惑のホームラン

1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野審判を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。当判定を下した大里審判員は、同年審判員を引退し審判指導員の道を歩んだ。

1年間に8点差を2度逆転される

1999年は中継ぎ投手の不振や村田真一捕手の負傷もあり、4月9日の横浜戦と4月28日のヤクルト戦では一時8点リードしながらともに逆転負けした。 ほか、1991年7月19日の中日戦でも8点差を逆転されている。この時には中村武志に8回に代打同点満塁、10回にサヨナラと2打席連続本塁打を打たれて敗れた(ナゴヤ球場の「8点差からの大逆転」も参照のこと)

1 2 3 4 5 6 7 8 9
巨人 5 3 0 0 0 1 0 0 0 9
横浜 0 1 5 0 0 6 1 0 X 13
1 2 3 4 5 6 7 8 9
ヤクルト 1 0 2 1 0 0 4 1 1 10
巨人 4 5 0 0 0 0 0 0 0 9

球団史上初の3連続引き分け

2005年、交流戦のオリックス6回戦(5月29日)から日本ハム5回戦(6月1日)まで、プロ野球7度目、球団史上初の3試合連続引き分けを経験した。
オリックス戦は初回に小久保裕紀の3ランで先制しながらも追加点が奪えず、7回に追いつかれて3-3。札幌に舞台を移した日本ハム戦は両日とも23時前までもつれ込む大接戦となった。初戦は日本ハム投手陣が13被安打・11四死球と乱調だったもののジャイアンツ打線も18残塁の拙攻で4-4、2戦目は守護神・木佐貫洋が最終回にセギノールに1発を浴びて追いつかれ、5-5の引き分けに終わった。
この3戦ではいずれもリードしながらも追いつかれ、また同点となった後は勝ち越し点を奪えずと、図らずも2005年のジャイアンツの拙攻と中継ぎ抑えの弱さを露呈することとなった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
巨人 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3
オリックス 1 1 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 3
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
巨人 0 0 2 1 0 1 0 0 0 0 0 0 4
日本ハム 2 0 0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 4
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
巨人 0 0 0 0 3 0 1 1 0 0 0 0 5
日本ハム 0 1 1 0 2 0 0 0 1 0 0 0 5

取り消された本塁打

2006年6月11日、交流戦のロッテ最終戦(第6戦)で李承燁の本塁打が取り消されるという前代未聞の珍事が発生した。3回表2死得点1-1の同点の場面、一塁に走者小関竜也を置いて、李がロッテ先発・渡辺俊介から右中間席へホームランを打ち、勝ち越しかと思われた。しかし打者走者生還後、渡辺が投球する前にロッテ三塁手・今江敏晃が「一塁走者の小関が三塁を空過し本塁に生還した」として三塁触塁のアピールプレイを行い、これが三塁塁審・西本欣司に認められ小関はアウトとなった(野球規則7.10)。これにより本塁生還前に3アウトになったため李の得点は認められず、記録上はシングルヒットとされた(野球規則7.12)。ホームランで打者走者がベースを空過しためアウトとなったことはあるが、走者が空過したためヒットとされたのはプロ野球史上初の出来事である。原辰徳監督はこの裁定に関して抗議を行ったが西本が「踏んでいないという絶対的な自信がある」と発言した為、激しい抗議を行わなかった。

6月12日にジャイアンツは、セントラル野球連盟に対して口頭で抗議を行った。6月13日には抗議書と映像を記録したDVDを提出して審判技術の向上とビデオ判定導入を文書で要望し、同時に口頭で記録の訂正を求めた。6月19日に連盟より回答が示され、その中で連盟は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」(野球規則9.02(a))ことと野球規則内に映像での判定の規定が無い事から「検証結果に論評すべきでない」として、誤審かどうかについてはコメントを避けた。また「映像で確認した場合」に「当該ジャッジと変わっていることもあるのは残念ながら事実」としたものの、野球が肉眼によって裁定される競技であるという原則は守られるべきであるとして、ビデオ判定導入については考えていないとした。球団は、再度抗議書を提出したが同様の回答が再度示され、それ以上の抗議は見送った。なお、2007年よりオープン戦で本塁打の判定に限定してビデオ判定の導入テストの実施が検討されたが球場によっては設備が不十分であったため見送られた。

セントラル・リーグ唯一のサヨナラ勝利V決定球団

1990年2000年2007年の優勝をサヨナラ勝ちで決めており、これは他のセ・リーグ5球団では例がない。また、試合がない日に優勝が決まったケースが5度(1958年1961年1965年1977年1987年)とセ・リーグでもっとも多い(巨人以外では1954年の中日のみ)。

キーワード

「紳士」

正力松太郎オーナーが「巨人軍は常に紳士たれ」という言葉(巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓のうちの1つ。残りは「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」で計3か条)を残したようにジャイアンツ選手は社会人、人間として模範となることを求められており、テレビ出演や試合の移動の際はスーツ姿にネクタイが義務付けられてきた。

また、髭を生やす事と茶髪・金髪・長髪も禁止されている。しかし、この規定は他チームからの移籍選手や外国人選手には適用を除外されるケースがある。具体的には髭がトレードマークの屋鋪要が横浜から移籍してきた時は条件付き(活躍する事)で認めていた他、北海道日本ハムから移籍した小笠原道大に球団は「無理強いをするつもりは無い」と、髭を認めていたが、ジャイアンツ移籍後は本人の意思で髭を剃った。外国人選手では大洋時代は「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークのシピン大阪近鉄から移籍してきたタフィ・ローズコーンロールと髭を例外として認めていた(シピンはその後この「紳士たれ」のルールに沿って髪とひげを切り落とした)。

さらに明示はされていないものの、清原和博選手がジャイアンツ在籍時代ピアスをつけていたことがあったが、OBを中心に「(紳士らしくないので)外すべきだ」という意見が存在した。

2007年度からは近年の成績不振もあり初心に帰ったのか、再び「紳士たれ」という言葉を実行するとのこと。

外様の意見としては、野村克也が『巨人軍論』でこのようないわゆる紳士野球については肯定的であり、自身が監督のときも茶髪、ピアスなどは厳禁である。堀内恒夫が監督に就任したときに茶髪やピアスを承認したときにかなり否定的な意見を発している(なお堀内は監督就任後チームの気分転換を図るため髭を蓄えた時期があった)。野村曰く強いチームを作るには厳しいルールが必要であり、選手は茶髪やピアスで目立とうとするのではなくプレーで目立つべきだと主張している。また、厳しいルールの下で人間が鍛えられそれが野球によい影響を与えるとしている。

また選手登録に関しても本名を原則としてきたが、ジェレミー・ゴンザレスが入団するに当たり、初めてニックネームの「GG」を登録名にすることになった。これは既にルイス・ゴンザレスジェレミー・パウエルという選手が各々実在し、ゴンザレス、あるいはジェレミーだけで登録してしまうとそれらの選手と間違えられやすくなってしまうことを考慮した特例である。

伝統の一戦

巨人と阪神タイガースの対戦カードは伝統の一戦と主にマスコミなどで表現されることがある。ただし伝統の一戦という表現は必ずしも単純にこの対戦が勝敗の拮抗したライバル関係であることを示すものではない。

戦前は1936年のプロ野球が始まって以来、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士であったといえる。しかしその後は阪神の長い低迷もあって2006年シーズンまでの通算成績は巨人の902勝692敗57分、72シーズン中、実に7割以上の52シーズンで巨人が勝ち越すなど戦績は一方的である。また2003年から2006年にかけて阪神が復調傾向にある中では逆に巨人がその間球団史上初めて4シーズン連続で優勝を逃しており、やはりどちらかに一方的なシーズンであることが多い。同じセ・リーグ内で言えばむしろ中日の方が巨人の通算勝率は悪く、純粋に勝敗の拮抗を争う関係であればそちらがむしろ適している。

それでもこの対戦カードが伝統の一戦と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった沢村栄治景浦將の対戦にはじまり、ミスタータイガース村山実とミスタージャイアンツ長嶋茂雄、奪三振王江夏豊と本塁打王王貞治、ミスタータイガース掛布雅之と巨人のエース江川卓星飛雄馬花形満(こちらは架空の選手であるが)といった時代の人気選手たちの対戦が含まれるなど日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示している。

読売ジャイアンツの球団運営会社

ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は京成電鉄東芝阪神電気鉄道東京急行電鉄吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2ヶ月で読売興業に吸収されている。1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(旧有楽町そごう*―現ビックカメラ有楽町店)や旧読売新聞東京本社跡地にあるプランタン銀座店ビルの保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社(旧:中部本社)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の称号が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。

当初の背番号

戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。

例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。ちなみに、秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。

選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。

カラーテレビ用ユニフォーム

1957年、ジャイアンツ正力松太郎オーナーが会長を務める日本テレビカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためにジャイアンツのユニフォームを変更した。

最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された(南海ホークスとの日本シリーズでは元のユニフォームが使用された)。

次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでのジャイアンツのチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。

しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。

このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(ちなみにカラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年東京オリンピックである)。

最下位転落で大集会が開かれる

1975年に球団史上初となる最下位に転落したがそれ以前にも途中経過であるが最下位に沈んでいたシーズンがあった。しかしこの年最下位に沈んだのはそのまま低空飛行を続けていたためである。そのためこの年のシーズン中「日本雑学協会」の主催で長島巨人を励ます緊急大集会」を当時の練習場である多摩川のグラウンドで開いたという逸話が残っている。内容は巨人ファンの思いをプラカードや横断幕に書いてデモ行進をするというものであった。前年まで巨人応援のためのデモ行進が開かれたというケースはなかったため非常に話題となっていた。結局この年は大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えている。もちろん最下位転落はこの年が2007年現在唯一となっている。

三本柱

藤田元司は投手陣を中心に守備力を重視した野球を展開し、通算7年間の監督在任中に4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。この藤田野球に欠かせない存在だったのが「三本柱」といわれる、3人のローテーション投手である。

1981年からの3年間で中心となったのは江川卓西本聖定岡正二。西本は松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同い年の定岡、法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。定岡は1985年の引退までに51勝、江川は1987年の引退までに135勝、西本は中日ドラゴンズに移籍する1988年までに126勝(最終的に165勝)の成績を残している。

1989年からの4年間で中心となったのは斎藤雅樹槙原寛己桑田真澄。斎藤は安定感、槙原は球威、桑田は投球術と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。

主催試合開催方法関連

地方球場開催

かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山旭川札幌ドームでの2-3連戦)、九州シリーズ(平和台北九州福岡ドーム、更に隔年で北陸シリーズ(金沢、富山県営、富山市民(アルペンスタジアム)、福井などでの2-3連戦)、東北シリーズ(盛岡、仙台、郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。 しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため(ドーム開催のほうが観客収入が多いことと移動を減らして選手の負担を減らそうとするフロントの考えと思われる)、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年度は地方都市の開催を進めることになり、仙台での15年ぶりの復活開催や、長野長崎での公式戦初開催(長野県では過去に松本で開催した事例あり)など地方開催を再び増やすことになった。特に長崎では伝統の一戦・阪神タイガースとの試合を編成したが、これは1日移動日を挟んで東京ドームでもう1試合を開催する変則2連戦となった。

2006年は55年ぶりとなる秋田での開催のほか、福島、倉敷等で開催された。2007年は初の神戸市スカイマークスタジアムでの開催のほか、ひたちなか・長崎などでの開催が実施された。

大阪ドーム(京セラドーム大阪)での主催ゲーム

関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年フランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に西京極大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に1955年大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。

ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻め)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は西京極球場でのオープン戦を除き、殆どなかった。しかし1997年大阪ドーム(京セラドーム大阪)が竣工し、その年には読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは1999年2001年以後は毎年1-2試合開催している。2001年以後は東京ドームで開く都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置。しかし2006年は4月に開催され、2007年も4月に開催された。この2007年は神戸(スカイマークスタジアム)でも1試合組み込まれており、巨人軍初の関西3連戦が実現したことになる。(これまでも大阪ドームを含めた3連戦の遠征はあったが、1試合は倉敷や松山での開催で、大阪ドームは2連戦だった)

また公式戦ビジターゲームは相手のホームチームのフランチャイズ以外(つまりビジターの地方ゲーム)での開催はしばらく無かったが、ここ数年は静岡草薙球場での横浜戦など地方ビジターゲームも行なわれる。

カードは、ヤクルト戦(1997年、1999年、2002年、2005年、2006年)が最も多く、横浜戦(2001年、2004年)が2回、中日戦(2003年)と広島戦(2007年)それぞれ1回ずつとなっている。阪神戦はまだ1回も行われていない。

長期ロード

プロ野球の長期ロードといえば全国高等学校野球選手権大会開催中の阪神が有名だが、巨人も2週間近く長期ロードが毎年組まれている。これは毎年、本拠地の東京ドームで都市対抗野球大会が開催されるためで、阪神の死のロードと入れ替わる形で始まる。この間、巨人は札幌ドームなどで主催試合を行う。2007年は、札幌ドームでの主催ゲームを含め、11試合を東京ドーム以外で行った。(8月24日 - 9月6日)なお都市対抗が7月下旬 - 8月初旬の開催だった頃も長期遠征があったが、この時は主催試合はなかった。(全て他球団主催のビジターマッチ)

ホームでのデーゲーム開催

東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。これまで後楽園時代は頻繁に日曜日のデーゲームを開催されていたが東京ドームが開業1988年以降はゴールデンウィーク期間中や開幕シリーズなどで部分的にデーゲームをした事例はあるもののビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは殆どなく上記の地方球場開催の減少も影響し、ナイター設備がない円山球場での北海道シリーズ(現在は札幌ドームで行われる)と消化試合程度だった(2002年度の札幌ドームでの北海道シリーズはワールドカップサッカー日韓大会=札幌ドームも会場の一だった=のテレビ中継の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また2004年9月23日の横浜スタジアムでの横浜戦もデーゲームで開催された)。しかしファン離れが深刻になってきていることを踏まえて、春季の試合を中心に年間6-7試合程度を日曜日のデーゲーム開催で対応することでファンの更なる増加を目指そうという考えを示しており以下のような活動が認められる。

2005年は東京ドームでの日曜日のホームゲームのうち、5試合(5 - 6月の交流試合(日本版インターリーグ)3試合、セントラル・リーグ2試合)の試合開始を17時からのトワイライトゲーム(ナイトゲームは18時開始)、また5月5日の横浜戦は14時からのデーゲームとした。また、ビジターゲームでは5月1日の広島戦(広島市民球場)と、9月17・18日の横浜戦(横浜スタジアム)2試合の週末の3試合がデーゲームで開催された。

2006年は全てのホームゲームで試合開始を18時のナイターに戻すことになった。一方ビジターゲームでは広島、横浜戦に加え、ナゴヤドームでの中日戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで行った。対象となるのは横浜戦3試合(4月16日、9月16日、17日)、広島戦2試合(7月8日、9日)、中日戦4試合(4月8日、9日、6月24日、25日)の9試合。これは、テレビ中継を行う放送局のゴールデンタイムの定時番組枠確保という狙いもある。

2007年はホームゲームでは6月23日の西武戦(ひたちなか市民球場)と7月15日の広島戦(東京ドーム)の2試合、ビジターゲームでは神宮球場でのヤクルト戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで開催されることになり、また交流試合でも楽天戦及び西武戦がデーゲームで開催される。対象となるのは横浜戦4試合(3月31日、4月1日、9月1日、2日)、広島戦2試合(6月30日、7月1日)、中日戦3試合(5月3日、19日、20日)、ヤクルト戦2試合(7月7日、8日)、楽天戦1試合(5月26日)、西武戦1試合(6月3日)の13試合である。

キャンプ期間中のファンサービス

2005年度の宮崎キャンプで様々なファンサービス事業を実施した。内容は以下のとおり。

  • 会場に訪れるファンのためにその日の練習プログラムを紹介する「ジャイアンツ新聞」を毎日配布。
  • OBの長嶋一茂宮本和知水野雄仁が宮崎県内の小学校を訪れてトークショーを行った。
  • 週末と祝日には全国各地の小学校をテレビ電話やインターネット回線の中継で結んで選手とのふれあいトーク会を開催した。
  • 練習開始前・終了後にグラウンドをファンに開放し、選手とのサイン・握手会なども開いた。

応援スタイル

鳴り物応援および チャンステーマも参照

ジャイアンツの応援は、私設応援団である東京読売巨人軍応援団の先導によって、声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。また「紳士たれ」という巨人軍憲章の尊重から相手選手に対しても敬意を払い、相手野手がアウトになったときや投手が降板するときに他球団応援団で行われるようなアクションを行わない特徴がある。

また現在は相手チームの選手でも過去にジャイアンツで功績を収めた選手が出場する際や、相手チームの選手が好プレイをした際に、その選手に対し拍手が発生することがある。2004年に行われたヤンキースとの交流試合の際、相手チームの選手であるにも係らず、松井秀喜の応援を行った。また、パ・リーグとの交流戦で、オリックスへ移籍した清原の応援も行われている。

応援時の格好は他球団同様、ホーム、ビジター用のユニフォームやシャツを着ることが多いが、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ・選手(特に松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が所属しているニューヨーク・ヤンキース(松井のロゴが入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くない。

一時期、私設応援団のひとつであったG-FREAKSが行っていた応援スタイルに対して、そのオリジナリティに関する論議が発生した事がある。

FA制度導入以後の補強傾向

マスコミ(読売・報知・日テレなど)を親会社に持っており、チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。またチームに真新しさを求める親会社の意向の為に毎年のように新しい大物選手の獲得を目指すこととなる。特にFA制度が導入された1993年以降は同制度を利用して大物選手の獲得が容易になった事もあって、毎年のように選手獲得が目指されている。-読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧も参照

しかし、そのような親会社の事情が反映されるあまり、本来の強化ポイントと外れた選手の獲得に奔走したり、ポジションの被る選手を獲得するなど、むしろその補強がチーム強化の障害となっている。特に、鹿取義隆退団以来の課題である「絶対的なクローザー」については補強失敗を繰り返している。

1990年代では「巨人軍」或いは当時監督であった「長嶋茂雄」というブランドの求心力でFA宣言した他球団の4番・エース、またアメリカのメジャーリーグなどで活躍した外国人選手などを獲得。特に4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもあった。このあまりにも積極的な補強のため、「FA選手の獲得は1球団2選手まで」という制限も誕生した。

近年、巨人が他球団から獲得した選手の成績を見ると、ほとんどの選手が巨人移籍前に比べて成績を落としている。その原因はいくつか考えられる。まず、巨人が好んで利用するFA制度には、選手が権利を獲得するまでに年数がかかり過ぎるという問題点が挙げられる。この規制のため、FA権を獲得した選手は、その時点で選手としてのピークに達していることが多い。つまり、その後は大幅な成績向上を見込めないどころか、成績が下降していく選手も少なくない。巨人に限らず、FA移籍の選手が移籍後に活躍した例は多いとは言えない。にもかかわらず、巨人は積極的にFA選手を獲得しているので、その分他球団に比べて余計に失敗していると言える。

マスメディアの注目度という要因も無視できない。マスメディアを通した露出度で言うと、巨人戦は全国ネットでTV中継されるので、ほかの試合に比べて露出度は格段に上と言える。その結果、巨人の選手は他球団の選手よりも多くの注目を集め、人気を獲得している。しかし一方で、巨人と対戦する球団は、ほかの試合に比べて多くの注目を集められる巨人戦に全力を注ぐ傾向がある。その結果、巨人は各チームのエース級の投手との対戦が続くなど、好成績を挙げにくい状況に置かれやすい。ただし、近年は巨人戦中継の視聴率は低下傾向にあり、他球団が巨人対策の先発ローテーションを組むことも少なくなっている。

背番号の大量変更

球団史上初となる4年連続優勝逸・2年連続Bクラスとなった2006年オフ、ジャイアンツは原監督の意向により、選手への「発奮材料」として育成選手を含め実に25人の選手の背番号を変更した。 変更は以下のとおり

選手 備考
川中基嗣 0 00 木村拓の背番号変更のため
木村拓也 58 0 広島時代の背番号
小坂誠 2 6 小笠原道大入団のため
鈴木尚広 68 12 この番号で3度盗塁王をとった柴田勲のようになってほしいという意向のため
林昌範 30 13 岩瀬仁紀中日)のようなクローザーになってほしいという意向のため
姜建銘 97 17 右投手の番号である17番を背負い球団を代表する右投手になってほしいという意向のため
高橋尚成 17 21 姜建銘の背番号変更、左投手の番号である21番を背負い左のエースになってほしいという意向のため
脇谷亮太 57 23 同級生のライバル青木宣親東京ヤクルト)に負けないでほしいという意向のため
李承燁 33 25 WBCで活躍したとき背負っていた縁起のいい番号
西村健太朗 23 30 江川卓のような活躍をしてほしいという意向のため
小関竜也 49 31 西武時代の背番号
野間口貴彦 13 33 2006年大活躍した李承燁の付けていた縁起のいい番号のため
亀井義行 25 35 李承燁の背番号変更、清水隆行淡口憲治ら左打ち外野手の出世番号という縁起のいい番号のため
村田善則 12 40 鈴木尚の背番号変更のため
木佐貫洋 21 41 メジャーの大投手トム・シーバーのように活躍してほしいという意向のため
野口茂樹 31 46 小関の背番号変更、2006年活躍できなかったため降格
實松一成 69 53 2007年活躍を期待するため昇格
三浦貴 39 54 吉武真太郎入団のため
三木均 41 57 木佐貫の背番号変更のため
星孝典 38 58 上野貴久入団のため
越智大祐 35 62 亀井の背番号変更のため
酒井順也 54 64 三浦の背番号変更のため
栂野雅史 27 68 門倉健入団のため
佐藤弘祐 96 100 育成選手契約となったため
山本光将 61 101 育成選手契約となったため

5000勝キャンペーン

  • 2006年のリーグ戦終了時点で、巨人軍は1936年の公式戦初勝利から数えて4982勝をあげており、2007年度の公式戦中にも日本のプロ野球で史上初となる5000勝を達成する可能性があった。そこで5000勝達成記念キャンペーン企画を実施した。
  • 1つはオープン懸賞で、5000勝の達成日付を予想し、正解した参加者に500万円分の旅行券、サマージャンボ宝くじ5000枚分などが当たるもの。
  • もう一つは東京ドーム開催のホームゲームにおいて、各試合抽選でファンにiPodなど、また勝利ゲームに関してはその試合のヒーロー選手サイン入りのカウントダウンボール(実際の使用球)を贈呈する。
  • そして2007年5月2日対中日5回戦(ナゴヤドーム)で日本プロ野球史上初の5000勝達成。1965年に通算2000勝をはじめ、1979年に3000勝、1993年に4000勝とすべて対戦相手が中日で、今回5000勝したのも中日戦だった。
  • 通算勝利数が5000勝となった記念として2007年5月4日1961年 - 1974年まで使用されたユニフォームを2007年6月8日6月9日の対楽天交流戦と同年6月10日6月11日の対日本ハム交流戦用として復刻使用すると発表した。前者(楽天戦)はホーム用、後者(日ハム戦)はビジター用を使用した。後者で本拠地で戦うのは公式戦に限れば1963年以来(この時代は後楽園球場。この年まで国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)と併用していた)44年ぶりとなる。また日テレでは6月8日 - 11日に限り(6月9日はNHK中継のため対象外)、「V9復刻ナイター」と称してV9が始まった1960年代当時の「日本テレビナイター中継」をBGMから字幕スーパーにいたるまで忠実に再現したものになった。(ただし特定のジャイアンツ攻撃中のイニング限定)
  • また、5月4日から5月13日にかけての主催6試合(4日から6日の東京ヤクルト戦、11日から13日の中日戦)を「5000勝達成記念感謝週間」として、観客に5000勝を記念した5円硬貨入り大入り袋(鎌倉市銭洗弁財天宇賀福神社で球団関係者が洗い清めたもの。5000勝を決めた5月2日・中日戦の日付とスコア入り)を贈呈するとともに、抽選で巨人軍特製グローブ(1試合20人)とトランプ(1試合400人)を贈呈する。
  • 6月8日には、当時の監督だった川上哲治をはじめとしたV9戦士(福岡ソフトバンクホークスの監督である王貞治を除く)が復刻ユニホームを身に着けて東京ドームに集結し始球式を行った。投手は、堀内恒夫。
  • 京王線各駅のA Lot(駅売店)では協賛キャンペーンが実施されていた。

マイレージキャンペーン

  • 巨人軍は2007年度のファンサービスキャンペーンのひとつの目玉として「ジャイアンツポイントチャレンジ・G-Po」を実施する。
  • ファンはG-Poのウェブサイトにある会員募集フォームに必要事項を入力し、仮登録確認画面(もしくはメール)をプリントアウトし、東京ドーム主催試合開催日のカウンターで正式登録を行う。その時点でカードが配布される。(発行手数料無料。この時点で10ポイント贈呈)
  • その他携帯電話(同じく10ポイント贈呈)、東京ドームカウンター(この場合手数料200円必要)でも受付される。
  • 来場時に20ポイント(週末と祝日は10ポイント)が付与され、さらに試合の活躍動向によるボーナスポイントや、巨人軍ファンクラブ会員やシーズン席購入者などにはシーズン開幕前のアドバンテージポイントとして20-40ポイントが付与される。
  • 200ポイント以上獲得ならそのポイント獲得数に応じてピンバッチコレクションをプレゼント。(それぞれ3種類ずつ。全12種類)さらに東京ドーム観戦席ご招待やシーズン終了後のポイント最高獲得者にはチャンピオンペナントに選手のサインを添えて原監督直々に感謝デーで贈呈するほか、日本一になった場合の優勝パレード観覧ご招待などの企画を行う。

主催試合の中継

詳細は読売ジャイアンツの主催試合の中継を参照

長年、主催試合のテレビ中継は読売系の日本テレビによる独占状態が続き(但し1959年6月25日天覧試合阪神戦だけNHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。2004年から視聴率の低迷をうけて日本テレビの独占が崩れ、他局の中継も行われるようになった。それにあわせて中継試合が削減されたり、中継時間が縮小されるなどしている。


関連項目

読売ジャイアンツを主な舞台とする作品

参考文献

  • 項目全般
    • 宇佐美徹也 『宇佐美徹也の記録巨人軍』、2000年
    • 越智正典 『ジャイアンツの歴史』、1974年
    • 巨人軍歴史新聞編纂委員会『巨人軍歴史新聞』、2000年
    • ベースボール・マガジン社 『日本プロ野球40年史』、1976年
  • チーム成績・記録節については以下のとおり
    • 読売巨人軍広報部『2007年 メディアガイド』、2007年

脚注・出典

  1. ^ 前掲『日本プロ野球40年史』p.30
  2. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.37
  3. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p.40 - 43
  4. ^ 前掲『ジャイアンツの歴史』p45
  5. ^ 前掲『日本プロ野球40年史』p.33 尚『ジャイアンツの歴史』p.45によれば32名
  6. ^ 前掲『宇佐美徹也の記録巨人軍』p.11
  7. ^ 読売新聞で約30万部、報知新聞で約5万部の売上部数減少。
  8. ^ ビデオリサーチ関東地区調べ。年間最高視聴率は1983年の27.1%(1965年の調査開始以来)。

外部リンク

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※1978年は不参加。

先代:
西城正三
日本プロスポーツ大賞受賞者
1969年
次代:
大鵬幸喜
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