連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦終結に際してポツダム宣言の執行のために日本国土の大部分に進駐し、間接統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。
目次 |
名称については、軍という語を含まずに連合国最高司令官総司令部(れんごうこくさいこうしれいかんそうしれいぶ)もしくは連合国総司令部(れんごうこくそうしれいぶ)とされることもある。軍を含めて連合国軍最高司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいぶ)[1] 、連合国軍総司令部(れんごうこくぐんそうしれいぶ)を用いる場合もある。英語では「General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers」(日本語では「総司令部/ 連合国軍最高司令官」の意味)が正式な名称であり、略語であるGHQ/SCAP(ジー・エイチ・キュー・スキャップ)も用いられる。なお、日本国内では、単にGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼ばれることもあるが、GHQとは、総司令部(General Headquarters)のことであり、日本国外において「連合国軍最高司令官総司令部」を意味することは少ない。
日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20)9月から1952年(昭和27)4月28日の日本国との平和条約発効までおよそ6年9ヶ月の間、日本占領に当たる連合国軍(最大43万人)を統括し、日本の間接統治権を与えられた。最高司令官はダグラス・マッカーサー陸軍元帥。1951年(昭和26)4月16日よりマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将に昇進)。
連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。連合国軍の命令の多くは1945年(昭和20)9月20日の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。1946年(昭和21)2月には政策決定の最高機関として極東委員会が、4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置されたが、実質アメリカによる間接統治という性格は変わらなかった。
GHQによる日本の弱体化政策により、まず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合国軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。
総司令部本部は接収した第一生命相互ビルに置かれた。宮城を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命ビルに本部を置くことは、連合国軍が天皇のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている(実際にはその立地上、連合国軍による本社ビル接収を免れないことを承知していた第一生命が、総司令部に利用されれば丁寧に使われ、将来の接収解除後にも建物をそのまま利用できるという目論見から、積極的に総司令部として利用して欲しいと差し出したという記録がある)。実は東京大学(本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の総長が抵抗してやめさせたという逸話がある。
なお、当時の日本政府及び日本の報道機関は連合国軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と呼んで、占領に対する否定的なイメージの払拭に努めた(言い換え。連合国軍将兵の犯罪についても“大男”と報じたという)。
連合国軍とはいっても、ほとんどの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。
総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。また、彼は後に、当初は日本を工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったと述べている。
連合国軍は進駐直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により国際法に違反した事後法により裁判により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。 平和条約により日本はその判決を受諾(ただし裁判自体は受諾していない)した。
総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発したいわゆる「プレスコード」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、戦中の米軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものは、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり、情報を統制した。一方でプレスコード通達の前には「自由の指令」(出版、言論、新聞の自由に関する覚書)を発し、GHQ及び連合国批判にならない自由・民主的なものは推奨した。
『国民主権』、『基本的人権の尊重』という民主主義の基本をそなえると共に、『戦争放棄』をうたった憲法(日本国憲法)を製作し、日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたと、マッカーサーは記録している)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止を行い、明治からの社会思想を解体した。同時に、軍国主義的活動をしていたとして政治家、軍人、思想家など20万人を公職追放し、思想面での弾圧を行った。
この工作の段階で、民政局は能や歌舞伎といった日本の伝統的な娯楽文化を、封建的であり、過去の遺物として禁止しようと計画していたが、知日派の局員の働きによって回避されたと言う話もある[要出典]。
民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察は廃止、経済民主化の為に三井・安田・住友・三菱の4大資本財閥を解体した。さらに、地方自治法が制定され、都道府県知事は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。警察も、それまでの国家警察から、地方自治体の影響下に置かれた地方警察へ組み替えられた。一方で民主主義に必要とされる、言論の自由は弾圧していた。
農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した半面、大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前と比べても極度に低下し、以後の食料自給率低下に拍車をかけ現在に至っている。
教育方針は連合国側で矯正させ、教育基本法を制定させて、6・3・3・4の学校制度を新設し、複線教育と全体主義の根本とされた教育勅語は廃止させた。教育使節団が2次に亘って来日し、これらの事業を完成させた。(アメリカ教育使節団報告書)。新制中学校による義務教育の延長など、教育の民主化に寄与する反面、旧制高等学校の廃止などが国力の漸減を意図したものだと指摘されてもいる。
国内経済の疲弊から社会主義が流行し、労働運動は非常に盛り上がったが、ソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が激しさを増すと、共産党の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)や処刑[要出典]・粛清[要出典]を極秘裏に行った。同時に軍国主義・超国家主義者などの公職追放を解除することで、ある程度の右派勢力を回復し、左傾化した世論のバランスを取ろうとした。また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合国軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、警察予備隊の創設と海上保安庁の強化を実施して、日本の再軍備を行った。これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および日米安全保障条約の発効に至った。
GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な悪影響を及ぼし続けていると考えられている。
当時、東京都民生局長だった磯村英一は著書の中で「GHQのほぼ最初の命令はレクレーションセンター(米兵専用の慰安所)の設置だった。日本人慰安婦(通称パンパン)を集めて直に作れと命令された」と述べている。当時の警察の記録によれば、横浜や横須賀だけでも被害届が出されたものでも1日平均30~40件の米兵による強姦事件があったとされている。当時の新聞には「恵比須顔にご用心」といった記事が掲載され、道を歩いていて米兵とすれ違う時に下手に愛想笑いをすると、路地裏に連れ込まれて強姦されると注意を促していた。更に「処女狩り」と称して白昼堂々市街地の一区画を武装した米兵が封鎖し、その中で未婚の女性(当時はほぼ100%処女だった)を集団強姦したり、ジープに分乗して病院に乗り付け、看護婦や入院患者を次々と強姦するといった悪質なケースもあった。強姦されている最中にショック死したり、強姦された後に自殺する女性が数多くいた。更に磯村は慰安所の事実がアメリカで報道され、アメリカの女性団体の抗議を受けた後は慰安所の運営を秘密裏に行うよう命令されたと証言している。
日本政府は終戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。また、イタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、進駐期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。
一方、冷戦の激化により、日本との講和も米国とソ連の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治(後の分離独立を企図)下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
1951年の講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国或いは中華人民共和国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。
これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島の米国による信託統治の承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印して米軍の国内駐留を承認し、台湾の国民政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国連へ加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1970年代には先進主要国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。
逆コースが始まる。