長老派教会(ちょうろうはきょうかい、Presbyterian Church)は、キリスト教のプロテスタント、カルヴァン派の一派。長老教会、長老派、日本以外の漢字圏では長老教とも訳される。
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歴史の長いプロテスタントの一派。16世紀のスイスの宗教改革において、ブリンガーに引き継がれたチューリヒのツヴィングリ派とジュネーヴのカルヴァン派のチューリッヒ協定による合同により改革派が成立した際、教会制度はカルヴァンの長老制が採用された。改革派はドイツ、フランス、オランダなどで広まったが、ジョン・ノックスによってスコットランドに伝えられ、この地で発展し、教会制度によって「長老派」(プレズピテリアン)を名乗るようになる。1567年からスコットランドの国教。以後、大陸の改革派とイギリスの長老派はそれぞれ信仰告白を整備し、準拠する信仰告白によって呼び分けられるようになる。ピューリタン(清教徒)のうちトマス・カートライトは国教会の監督制を否定し、長老制を主張した。長老派のウエストミンスター信仰告白は、1647年、スコットランド議会で採択され、1648年、英国議会でも採択された([1])。今日、長老派とは厳密にはウエストミンスター信仰基準を採択する教派を指す(この件の詳しい説明は記事改革長老教会を参照)。北米では少ない教会だが、ニュージーランドにおいては主流的存在である。
但し、ウエストミンスター基準に準拠せず単に形式的に長老制を採用するだけでも(長老制の厳密な運用がなされていない場合も)「長老派」「長老教会」を標榜する例は、日本、韓国、台湾などに散見される。
長老派は、聖書の使徒行伝(使徒の働き)14章23節、20章17節、テトスへの手紙1章5節に由来する。新約聖書が書かれたギリシア語の(πρεσβύτερος)は、長老と言う意味である。
教父たちの間では、長老職と司教(主教)職は同一視されており、時代が下るまで区別されなかった。長老たちが複数いるということは、教会政治の基準であるからである。
教父ヒエロニムス(347-420)は、『テトスへの手紙』の四巻で、以下のように述べている。「長老というのは、主教と同一である。悪魔の影響によって党派が増える以前、教会は長老会によって、統治されていた。」 教父ヨハネス・クリュソストモス(349-407)らもこれと同じ意見を持っていた。
ジョン・ノックス(1505-1572)はジュネーブでカルヴァンに学んだ。1560年に彼の作成した長老派のスコットランド信仰告白はスコットランド議会に採択された。ノックスはスコットランド長老教会の確立のために戦い、ローマ・カトリックのスコットランド女王メアリと対決した。ノックスは、スコットランド宗教改革の先駆者たちから影響を受けていた。ローマ教皇が反キリストであると教え、1528年に殉教したパトリック・ハミルトン、1546年に殉教したジョージ・ウィシャートらである。1638年グラスゴー大会の国民契約(カベナント)と五年後の厳粛同盟契約によりカベナンター(契約派)と呼ばれた。 [2]
トマス・クランマー(1489-1556)が作成した『英国国教会祈祷書』(1549年)と、クランマーがジョン・ノックスらの助言を受けエドワード6世(1537-1553)が署名した四十二箇条はカルヴァン主義の傾向があった。ヘンリー8世の娘メアリー1世(1516- 1558)は、プロテスタントを迫害した。火刑台が置かれたスミスフィールドの地は、殉教と結びついている。ローマ・カトリックのメアリー1世は、プロテスタントの男女、子どもを火あぶりで殺し、「ブラッディ・メアリー(Bloody Mary)」(血塗られたメアリー)と呼ばれた。クランマー、ヒュー・ラチマー、ニコラス・リドリーは殉教者として有名である。ラチマーは1555年の処刑の時「火あぶりは英国に火をともし、その火は神の恵みによって永遠に消されない」と言った([3]、[4])。信仰の火は受け継がれた。トマス・カートライト(1535-1603)は、聖書の究極的権威を主張し、1570年の使徒行伝(使徒の働き)の講義で、イングランド国教会の監督政治に反対し、長老制を唱えた。カートライトはジョン・ホウィットギフトにより、教授を解任され、1572年にはフェローの身分も奪われて、大学から追放される。ジュネーブに渡り、1585年に帰国してからは長老派建設の地下活動を行い、1590年に投獄された。カートライトとウォルター・トラヴァーは共著『戒規論』を記し、イングランドの長老派はカートライトによって生まれたと言われる。ウェストミンスター会議は、ウェストミンスター信仰告白を作成し、1648年にイングランド議会で採択された。
ウェールズ長老教会は別名カルヴァン主義メソジストとも呼ばれる。ウェールズメソジストリバイバルで生まれ、1811年に英国国教会から分離した。1823年、カルヴァン主義メソジスト、ウェールズ長老教会信仰告白(Confession of Faith of the Calvinistic Methodists or the Presbyterians of Wales)を採択した。カルヴァン主義を採用し、メソジストのウェスレー派と区別される。
ジェームズ1世は、スコットランド人の長老派をアルスター大農園に入植させた。1641年、アイルランドのローマ・カトリック教徒はプロテスタントを殺害した。1642年、スコットランドが入植者保護のため送った軍隊から最初の中会が生まれた([5])。これは北アイルランド紛争に繋がり、現在もカトリック系武装組織IRAのテロが続いている。
フランシス・マケミー(1658-1708)は、アメリカ長老派の父と呼ばれた。1726年、オランダ改革派から長老教会にリバイバルが起こり、大覚醒はジョナサン・エドワーズを通して会衆派にも広がった。1729年の大会はウエストミンスター信仰告白を採決した。1786年、第二次大覚醒が起こり、長老派でキャンプ・ミーティング(天幕集会)がはじまった([6])。リバイバルの結果、1810年に成立したカンバーランド長老教会はウェストミンスター信仰告白の二重予定説を放棄した。古プリンストン神学の『組織神学』は広く福音派に影響を与えた。1910年、北長老教会は根本主義を表明した。神学者J・G・メイチェン(1881-1937)は彼が異教と見なしたリベラリズムと戦い、1929年にウェストミンスター神学校を設立した([7])。アメリカの教会は福音派とリベラルに二分された([8])。
1819年、アメリカ改革派教会の宣教師が伝道を始める。1830年、スコットランド教会の宣教師が入る。本国での分裂により、1843年からスコットランド自由教会。1834年、アメリカ長老教会の宣教師がインド入りし、1845年インド長老教会の大会が開かれた[9]。
韓国のキリスト教会における二大教派は長老教(プレズビテリアン)と監理教(メソジスト)であった。早々と自由主義神学を取り入れた監理教に対し、長老教に保守的な傾向があったと言われる。韓国に保守的な改革派信仰を導入したのは1926年にプリンストン神学校でJ・G・メイチェンに学んだ朴亨龍である[10]。日本の占領時代は韓国のキリスト教会にとって苦難の時だった。韓国の長老教は神社参拝を拒否したため、日本政府は日本の長老派を派遣して説得にあたらせた。日本の迫害は苛烈を極めた。朱基徹は殉教者の中で特に知られている。神社参拝拒否事件で投獄され、生き残った出獄聖徒の流れは、1946年に高麗神学校を建て高麗派(高神)と呼ばれる[11]。1953年に長老教は保守改革派神学のイエス教長老会と、自由主義神学系の基督教長老会に分裂した。古プリンストン神学を韓国に紹介した朴亨龍以来、韓国の教会では聖書無謬説を採る保守神学が主流であった[12]。イエス教長老会は1959年に合同派(福音派)と統合派(エキュメニカル派)に分裂した。 韓国のあらゆるキリスト教会は毎日、午前四時三十分または午前五時から早天祈祷会を行う教会として知られる[13]。熱心な徹夜祈祷、断食祈祷がなされ、韓国中に祈祷専門の祈祷院がある[14]。韓国の長老教会は、カリスマ運動の影響を受けたこともあって、積極的な伝道を繰り広げ国内最大級の教会に発展した。韓国において長老教会は主流的存在とも言える最大規模の教団群を形成している。韓国の長老教会の中でも、異言の祈りを積極的に勧める教会もあれば、異言を否定して知的理解を重視し、聖書研究に熱心な教会も存在する。 最大教派の大韓イエス教長老会(合同)と大韓イエス教長老会(統合)の信徒数はそれぞれ二百万人前後である。
現在、韓国のおもな長老教会は次の通りである(信徒数順)。
このうち大韓イエス教長老会(高神)と日本の日本基督改革派教会、日本長老教会は宣教協力関係にある。韓国の長老教会は世界中に海外宣教師を派遣している。アフガニスタンの2007年タリバン韓国人拉致事件で人質になったのはこの大韓イエス教長老会(高神)に属する教会の会員だった。
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