| 高句麗 | |
|---|---|
![]() |
|
| 三国時代の地図、5世紀終わり頃 | |
| 各種表記 | |
| ハングル: | 고구려 |
| 漢字: | 高句麗 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
こうくり |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
コグリョ |
| ラテン文字転写: | Goguryeo |
| {{{alphabet-type}}}: | {{{alphabet}}} |
![]() 朝鮮の歴史 |
||||||||
| 伝説時代 (檀君朝鮮) (箕子朝鮮) |
||||||||
| 衛氏朝鮮 | ||||||||
| 漢四郡 | 高句麗 | 弁韓 | 辰韓 | 馬韓 | 三韓時代 | |||
| 高句麗 | (伽耶) | 新羅 | 百済 | 三国時代 | ||||
| 渤海国 | 統一新羅 | 南北国時代 | ||||||
| 渤海国 | 後高句麗 | 新羅 | 後百済 | 後三国時代 | ||||
| 高麗 | ||||||||
| 李氏朝鮮 | ||||||||
| 大韓帝国 | ||||||||
| 日本統治時代 | ||||||||
| 連合軍軍政期 | ||||||||
| 朝鮮民主 主義人民 共和国 |
大韓民国 |
|||||||
高句麗(こうくり、紀元前37年頃 - 668年)は、満州から朝鮮半島にかけて存在した扶余系民族とその国家名。中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主としてその他に牧畜・狩猟を生業としていたとみられる。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代をなした。隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅による連合軍に滅ぼされた。
目次 |
高句麗の国名は、漢帝国の玄菟郡の高句驪県に由来する。文献上は高句麗王以前に「高句麗侯」が見え、これは郡県廃止後に先住民に自治を期待して置かれる所謂「県侯」の類であろう。中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたことがわかる。中国の王朝がこの自称を公認したのは520年が最初であることが、歴代正史の冊封記事から明らかになっている。以後は「高麗」が正式名称として認められていた。中国・日本の史書においては高麗と表記される例があるのはそのためである。後世(現在)、「高麗」の正名を廃してもっぱら「高句麗」の旧称を用いるが、これは王氏高麗と区別する便宜のためで、『三国史記』から始まる表現である。高句麗の語義には諸説ある(「大きな都城」の意味との説もあるが確証はない)。前述の王氏高麗との区別による理由からか「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。
後継となる渤海と同じように、韓国と中国との間で高句麗史はどちらの歴史に帰属するかについて論争が起きている(朝鮮民主主義人民共和国も参加しているが韓国ほどには積極的でない)。中国社会科学院は2002年より中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクト「東北工程」を開始し、2004年には高句麗が中華民族の一部であり自国の地方政権であるとの認識を打ち出した。これに対して韓国は激しく反発し、外交問題に発展しかけた。高句麗は満州と朝鮮半島北部を領有した国家であり、高句麗人の多くは後に朝鮮人を形成する母体となったこと、満州が漢民族化したのは清朝中期以降であることから中国の政権とするには不適当だと言う意見が強いが、一方で古代国家を直接近現代の国家に結びつけるのは不適当でもあり(これは日本も含めた全ての国の『歴史』に当てはまる)、そのため厳密に言えばどちらの国の歴史でもあり、確定することは無理であると言う意見もある。日本の学会では高句麗・渤海史は朝鮮史でもあり満州史でもあるが、中国史とは言いがたいとする意見が主流[要出典]である。
北朝鮮は2000年頃から、平壌市と南浦市に所在する高句麗後期の遺跡の世界遺産登録を働きかけていた(高句麗古墳群)。2003年には登録される見込みであったが、中国も吉林省集安市を中心に分布する高句麗前期の遺跡の登録申請を行った(高句麗前期の都城と古墳)。この経緯によって、両遺跡は2004年に同時登録という形で決着をみた。
紀元前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡などの漢四郡を朝鮮半島北部に設置した。そのうちのひとつの玄菟郡の下に高句驪県(吉林省集安市通溝郷)が含まれており、これが高句麗の名前が出た最初である。紀元前82年に四郡のうちの真番郡・臨屯郡が廃止され、その一部が玄菟郡に組み入れられた。さらに紀元前75年に玄菟郡の東部7県が楽浪郡に転入され、残った玄菟郡の郡治が現在の遼寧省撫順地級市新賓満族自治県に移され、高句驪県の名前が引き続き用いられることとなった。これは、元の高句驪県の県城を高句麗族が奪取したために、玄菟郡の改編を余儀なくされたものである。紀元前1世紀中頃のこととして、漢の支配による玄菟郡・高句麗県は後退し、現在の集安市付近には扶余系の貊族による高句麗の勢力が固まってくることとなったことが確認される。
『三国史記』によれば、高句麗は紀元前37年に朱蒙(チュモン)により建てられたとされる。朱蒙の母は河の神の娘で天帝の子と出会って結ばれるが、父の怒りを買って東扶余王の金蛙の所へ送られた。やがて娘は太陽の光を浴びて身篭り、卵を産んだ。この卵を金蛙は動物に食べさせようとしたが動物はこの卵を守り、卵から朱蒙が産まれる。朱蒙は生まれた時から非常に弓が上手く(朱蒙と言うのは弓の名手のこと)、これに嫉妬した金蛙の息子たちは朱蒙を殺そうとするが、朱蒙は母の助言でいち早く脱出して卒本州に至り、ここで高句麗を建てたという。広開土王碑にもほぼ同じ内容が書かれている。詳細は東明聖王#建国神話を参照。
朱蒙が建国したとされる卒本の地は現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)に当たり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。
丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。
公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍毌丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである[1]。
その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝には首都を落とされ、臣従せざるを得なくなった。355年には初めて前燕から<征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王>に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。
391年に即位した19代広開土王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。その後、百済が倭と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。領域を南方に拡げた高句麗は、長寿王の時代になって平壌城に遷都した。
遷都直後は大城山城を拠点とし、しばらくしてから平壌城を居城とした。長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に勢力下として手に入れた。更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州を領有する大帝国となり、高句麗の最盛期とされる。しかし5世紀末になると盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両面に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結びながら包囲していく戦略を採ろうとしていた。
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結びつこうとした。そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退することに成功し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳である)。隋が倒れて唐が興ると、今度は唐からも遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗しようとした。唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながらもその間で百済と結んで新羅を攻める動きをとった。かねてより唐に接近していた新羅はあらためて唐に助けを求め、660年に百済が滅び、また淵蓋蘇文の死後にその子らの間に内紛を生じると、唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して高句麗は滅んだ。
高句麗の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内での傀儡政権として684年まで命脈を保った。
また北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の粟末靺鞨系高句麗人の指導者(乞乞仲象)により唐の支配を逃れ、その息子の大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興の契丹国(遼)によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗し、失敗のたびに指導者や領民のほとんどが高句麗の後継を掲げる高麗に亡命した。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金において大いに重用され、その中で女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は、同時期に滅亡した渤海の難民を同胞として積極的に迎え入れた。
また、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。
日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。
という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[2]。但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・濊・百済(王族)などが朝鮮半島に広く分布し、高麗王朝以降、「朝鮮民族」のアイデンティティーが確立されてゆく中で、半島南部の韓族とともに民族を構成していった一部とみられている。
高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。
朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、『三国史記』高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったことと見られる。広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。
高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から中国文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった[3]。
6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると、契丹や靺鞨など弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。
やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、隋煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗が唐に滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。
長野県には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、東京都狛江市の亀塚古墳も高句麗式とされる。また狛、巨麻の古代地名は以下の例のように日本各地に分布する。
4世紀末から5世紀にかけて倭国(日本)と高句麗は敵対関係にあったので、当時の高句麗人が自発的に移住してきたのか戦争捕虜であったのかは不明である。しかし、6世紀になって百済と高句麗の関係が改善するにつれて倭国と高句麗との関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。570年に北陸に漂流した高句麗人が「烏羽之表」を携えており、これが正式な国書であると王辰爾によって解読され、初めて国交が開かれたと伝えられる。7世紀前半までの高句麗と日本との国交は文化的な交流に限定されており、特に仏僧の活躍が目立つ。595年に訪れて後に聖徳太子の師となった恵慈、610年に訪れて顔料や紙墨を伝えた曇徴は有名である。7世紀後半には文化交流に留まらず、淵蓋蘇文のクーデターを伝えるなど、政治的な関わりをもつようになった。
668年に高句麗が滅亡すると倭国に亡命してきた高句麗人もあり、716年には武蔵国に高麗郡が建郡された。高麗郡大領となる高麗若光には705年に王(こきし)の姓が贈られており、高句麗王族であろうとされる。高麗郡高麗郷の地である埼玉県日高市にはこの高麗王若光を祭る高麗神社が今も鎮座する。ほかにも『新撰姓氏録』には以下のような高句麗系氏族が見られる。
歴代王については朝鮮国王の一覧#高句麗を参照。
『三国史記』高句麗本紀・始祖東明王紀には、高句麗の王族の姓を「高」(こう/コ)としている。しかし、建国の当初から中国式の姓を称していたわけではなく、当初の5代慕本王までは夫余の氏族名である「解」(かい/ヘ)を本姓としており、後に王姓が「高」とされたことからの遡及記述であると見られている[4]。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初であるが、高姓の由来としては、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものと見られている[5]。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式に姓名表記がされるようになった。それ以前には中国式の姓をもっていなかったか、自民族の固有語・土着語による姓(部族名)のようなものがあった可能性はあるが、記録からは確認できない。
高句麗には有力な地縁的集団が5つあり、これを五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)という。王は消奴部(後に桂婁部)から立てられ、王妃は絶奴部から出されていた。これら五族は一定の地域を地盤とする部族国家であり、初期の高句麗は部族連合の態をなしていたと見られている。2世紀末、故国川王の死後の発岐・延優(後の山上王)の兄弟争いに公孫氏が介入したことにより、高句麗の本拠地が丸都城(集安市)に移ると、基盤となる地域からの移動のために五族の力が薄れていく契機となった。3世紀前半の東川王の時代には魏の攻撃を受けて逃亡した王を支えたのは直属の五部であり、王都を回復した後の褒賞は五族には与えられず、五部にのみ与えられることとなった。平壌に遷都した後は五族は内・東・西・南・北(或いは黄・前・後・左・右)の五部に改称された。この改称については地縁的部族に由来する貴族勢力の衰退とも見られるが、貴族層の構成要員が地縁的部族の有力者から王の直属の官僚へと移り変わったことによるものであり、新しい貴族層によって中央集権化が強められたものと見られている。この後に五部は高句麗の王都付近及び地方の軍政・行政のための区画となった。高句麗の滅亡時点では五部の下に176城があったといい、部の長官を褥薩、部の配下にある城主を道使といった。これらの王都の区画の制度は高麗の五部坊里、李氏朝鮮の五部へと受け継がれた。
『三国史記』によれば、古くは左輔・右輔の官名が最高位のものとして見られ、百済でも同様に左輔・右輔を最高位の官名としていた。高句麗では第8代新大王のときにその上に国相という官を新設し、王の即位に功績のあった明臨答夫が始めてその位についた。
『三国志』や『後漢書』などの表記・序列に異同はあるものの、3世紀には以下の10段階の官制が整っていたものと考えられている。ただし相加、対盧、沛者、古鄒加については五族の有力者が称したものであり、必ずしも王権の元に一元化された官制だったわけではないとされる。
『隋書』や『新唐書』に見られる官位名についても異同は著しいがそれぞれ12階とし、第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代に王権の下に、以下のような一元的な13段階の官制に整備されたと考えられている。
高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし、막리지、マンニジ)の位について専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている。(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない。)