高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)は、飛躍的に経済規模が継続し拡大すること。
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経済成長は条件が整うと飛躍的に上昇する場合がある。経済成長は付加価値生産力の増大を意味するため、経済成長の条件には、
などがある。とりわけ、生産力増大のための投資が興隆した場合、経済は大きく成長する。投資は生産力と雇用を増大させると同時に、乗数効果により需要を生み出す(投資の二重性)。投資が需要と供給の双方を生み出すことで、付加価値生産は増大する。
一方で、この需要と供給の急増大が雇用との関係も含めてバランス(ナイフ・エッジの均衡)をとるのは難しく、様々な要因で高度成長はストップする。
尚、需要面から見た場合、GDPを構成する消費C+投資I+政府支出G+純輸出NXは、それぞれ経済成長の制約条件となる。
日本経済が飛躍的に成長を遂げたのは、昭和30年代~40年代(1955年から1975年まで)の20年間である。また、昭和前期の日中戦争の前後からアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなる1944年前後まで軍需に支えられて、統制経済下にあるとはいえ経済成長率自体は高度経済成長期に匹敵するため、この時期も一種の「高度経済成長」と皮肉交じりに唱える経済史学者も居る。
経済学的には、戦争などによる資本ストックの大量の減少は、貯蓄率一定の場合、その後の国民所得(フロー)の高成長をもたらすことが、ソロー・モデルによって予測される。
第二次世界大戦における敗戦による荒廃や混乱も、1950年代の朝鮮戦争特需により1955年ごろには日本経済は戦前の水準に復興し、更なる高度成長が始まった。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。
この経済成長の要因は、良質で安い労働力、余剰農業労働力の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、高率の民間投資、輸出に有利な円安相場(固定制)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成や、戦中の軍需生産のために発達した技術力が挙げられる。
1960年代には東京オリンピックの開催やベトナム戦争、1970年に開催された大阪万博などによる特需があり、1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達した。この経済成長は世界的に見ても稀な例であり、終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」と言われた[要出典]。この驚異的な経済成長への憧れや敬意から、日本を手本とする国まで現れた(マレーシアにおけるルックイースト政策)。現在では「昭和(戦後)」の代名詞として、この頃の映像資料が使われる事が多い。
この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を少しずつ促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」、「個より集団を重んじる」等が要因として挙げられた時期もあった。
こうした経済成長の影で、社会公共投資や福祉支出は低水準にとどまり、また環境破壊が起こり、「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」といった公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が、高度経済成長期後半になると深刻化した。これは、国民が環境よりも経済成長を優先した結果であるといえる。また、都市への人口集中による過密問題の発生と、地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、公害対策基本法の制定や『日本列島改造論』の提唱につながることになる。
1971年のニクソン・ショックによる実質的な円の切り上げは、国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。1973年の第四次中東戦争をきっかけに、原油価格が上昇しオイルショックに陥ったことで戦後初めて実質マイナス成長を経験し高度経済成長時代は終焉した。その後は安定成長期(1973年~バブル崩壊の1991年まで)へと移行した。なお、まれに、バブル景気崩壊までを戦後の右肩上がりの時代として「高度経済成長」と括る場合があるが一般的ではない。バブル崩壊以後も趨勢として実質経済成長は続いており、右肩上がりの時代が終わったわけではない(ただし安定成長期そのものはバブル崩壊と共に終焉し、以後は2000年代前半まで続く平成不況期となった)。